──かつて、プロ野球の監督になるためには、現役時代の成績や知名度が必要だった。歴史を振り返ってみても、その球団で功績のあった名選手が指導者になるケースが多い。世界大会に出場する日本代表の監督もまたしかり。アテネオリンピックの長嶋茂雄(病気のために中畑清が監督代行)、第1回WBCの王貞治、北京オリンピックの星野仙一、第2回WBCの原辰徳など、スーパースターが名を連ねた。
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2012年、日本ハム監督就任1年目でパ・リーグを制した栗山英樹氏photo by Sankei Visual
【期待のかけられ方がほかの監督と違う】2012年に北海道日本ハムファイターズの監督になった時、名選手でもないうえに指導者としての経験のない私が監督として成功するとは誰も思わなかったかもしれない。「どうせ失敗するだろう」と考える人がたくさんいたでしょう。そういう意味で言えば、非常にやりやすかった。
なぜなら「普通のこと」をやらなくてもいいから。逆に、「普通のことをやっても仕方がない」くらいに考えていました。セオリーに縛られることなく、思い切った勝負ができる。結果を求められないわけじゃないけど、期待のかけられ方がほかの監督とは違っていると感じました。だから私は、「自分を信じてくれた人に恩返しをしなければ」と思ったし、「そのために自分の信じることをやろう」と決めました。
プロ野球という世界のなかで、私が異分子であることは間違いない。甲子園で活躍して、プロ野球でタイトルを獲ったという、いわゆる野球エリートではありません。
──現役引退後、スポーツキャスターとして活動していた栗山に意外なオファーが届いた。2004年に本拠地を移した北海道日本ハムファイターズの監督----。2006年、2007年にリーグ連覇、2009年にも優勝したチームを任されることになったのだ。栗山はファイターズに所属したこともなければ、指導者としての経験もなかった。
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監督のオファーを受けた時、冷静に考えて「私のような人間がプロ野球の監督をするのは間違っています」とお断りした経緯があります。ただ、球団の方から監督としての実績うんぬんではなく、「野球を愛して、選手を愛してくれればいい」と言われ、考えが変わりました。「それならできるかもしれない」と思ったからです。
監督として約束したのは「選手にウソをつかない」ということ。「マイナスをプラスに変える」という発想自体はありましたが、プラスに変える方法を持っていなくて、「これからなんとかして見つけます」という思いでした。でも、自信はまったくありません。具体策もなし。そういうところからのスタートでした。
【コーチを連れていかなかった理由】
──前任の梨田昌孝は近鉄バファローズの監督時代にリーグ優勝を経験、2009年にもファイターズをパ・リーグの頂点に導いた。しかし、2010年は4位に沈み、2011年も優勝を逃した(2位)。しかも2011年に18勝(6敗)を挙げたダルビッシュ有(現サンディエゴ・パドレス)がポスティングシステムを利用してメジャー移籍することが決まっていた。栗山は参謀役を同行させることなく、単身でチームに乗り込むことにした。
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私が誰かコーチを連れていくということは、まったく考えませんでした。私の性格や考えを知る人が身近にいてくれれば精神的にもラクだし、助かることもあるでしょう。しかし、それまでチームにいたコーチ陣のなかに私が入ることを決断しました。
このことはマイナスかもしれないし、プラスになるかもしれない。
私が監督になる前のファイターズの状況を見た時、チームの成績はよかった(勝率.526でリーグ2位)ので、コーチを変える必要はないと考えました。
本当に、はじめは何もわかりませんでした。プロ野球には12球団ありますが、チームによってやり方は違います。チーム内の決め事がどういうものなのかと聞くところから始めました。
もちろん、攻撃でも投手起用でも、最終的に決断するのは監督です。それは頭ではわかっていましたが、いざ自分が決断する段になると、「えっ、俺が決めるの?」という感じでした。チームにはそれぞれの分野の専門家であるコーチがいるので、投手コーチや打撃コーチと「これまではこうしてきましたが、どうしましょうか」という会話になっていきました。
私が監督になるにあたって、してはいけないと思ったのは、自分のモノサシで見ることでした。チームにとって最善なのは、選手の成績がよくなることです。目の前で起こっていることが選手にとって、いいことかどうかを考えて、いいものはそのまま残し、悪いところは変えるようにしていました。新しいことをやりたくなるのもわかりますが、私の場合はそうじゃなかった。だから、コーチをそのまま残したのです。
【やれることは全部やり切った】
──2012年、栗山新監督のもとでチームはスタートした。絶対的なエースだったダルビッシュはもういない。開幕投手を任されたのはプロ2年目の斎藤佑樹だった。前半戦を2位で折り返したファイターズは埼玉西武ライオンズと首位争いを繰り広げ、10月2日にリーグ優勝を決めた(74勝59敗11分、勝率は.556)。
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私の人生の中で一番苦しかったのはこの1年です。あんなに苦しいと思ったことはなかった。プロ1年目の時、病気をした時よりもつらかった。1年中、ずっと人目にさらされて、評価され続けた1年間でした。
スタメンを決める、サインを出す、ピッチャーを代える、代打を出す......すべての場面で判断を求められ、ひとつ動くたびに結果を問われる。ベンチにいる全員から「監督、そのサインで大丈夫?」と思われているのが空気でわかる時もありました。相手はもちろんのこと、味方の目とも戦う日々でした。
失敗しても、うまくいっても、その判断を下した根拠を監督は示さなければいけないと私は考えます。選手にもコーチにも、応援してくれるファンにも。自分の判断に対して、あんなに考え続けた1年間はありません。「なんでそのサインを?」「本当に大丈夫?」という目と戦った1年間は、一瞬たりとも気が抜けませんでした。
勝てばOK、だけど負けたら許さない──毎日、そんな空気を感じていました。
プロ野球では、勝っても負けても試合は続きます。
監督という仕事に慣れることはありませんでした。優勝争いをしている時も「どうやったら優勝できるの?」とまわりのスタッフに聞いたものです。選手たちやコーチには優勝した経験があるからです。「9月頃になったら、だんだん方向性が出ますから」と言われて、そういうものなのかと思うくらいで。
私には優勝争いをした経験がなかった。わからないままでずっと戦っていきました。毎日毎日が必死で......10月2日、ライオンズが負けるのをテレビで観戦している時に3年ぶりのリーグ優勝が決まりました。
──2012年のパ・リーグを制したファイターズはクライマックスシリーズファイナルで福岡ソフトバンクホークスに全勝して日本シリーズ進出を決めた。そして、原辰徳監督率いる読売ジャイアンツと日本一をかけて戦い、2勝4敗で敗れた。
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日本シリーズが終わった頃はもうヘトヘトで、疲労困憊でした。「やれることは全部やり切った」という思いはありました。ただ、あの1年にはもう二度と戻りたくない。そんなシーズンでした。
優勝がこんなにもしんどいものだとは思いませんでした。もし負けていたらどうなっていたのか......体を壊していたかもしれない。チームには好不調の波があって、どんなに懸命に戦っても「勝てそうにない」という感じになってしまう時があります。連敗している時、エレベーターに乗り合わせた杉谷拳士選手に「監督、笑ってください」と言われて、「俺、そんなにひどい顔してる?」と聞いたことがあります。負けが込んでしまうと、笑っていてはファンに対して失礼かなと思ってもいました。
監督として初めてのシーズンだから、「誰も期待してないだろう」という気持ちもあり、「結果は気にせず思い切って戦おう」と思いながらも、どうしても結果にとらわれる。何が正しいかがわからない中で、試行錯誤を繰り返しました。
プロ野球も変化していますが、10年くらい前までは、選手として実績のない人が監督になることは少なかった。ましてや私には指導者としての経験がまったくありませんでしたから、私のようなタイプが監督になる可能性は限りなく低かった。
にもかかわらず、監督1年目に優勝することができた。不可能だと思われていても、覆すことはできる。それを自分自身、感じることができたシーズンだったと思います。
栗山英樹(くりやま・ひでき)
/1961年生まれ。東京都出身。創価高、東京学芸大学を経て、84年にドラフト外で内野手としてヤクルトに入団。89年にはゴールデングラブ賞を獲得するなど活躍したが、1990年にケガや病気が重なり引退。引退後は野球解説者、スポーツジャーナリストに転身した。2011年11月、日本ハムの監督に就任。翌年、監督1年目でパ・リーグ制覇。2016年には2度目のリーグ制覇、そして日本一に導いた。2021年まで日ハムの監督を10年務めた後、2022年から日本代表監督に就任。2023年3月のWBCでは、決勝で米国を破り世界一に輝いた
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