黒沢清監督が語る、“源流・原点”と蓮實重彦の映画理論「顔のクローズアップで奪われるものもある」【『Cloud クラウド』公開記念インタビュー特集】

黒沢清監督が「源流・原点」をテーマに語り尽くす!/撮影/湯浅 亨

黒沢清監督が語る、“源流・原点”と蓮實重彦の映画理論「顔のクローズアップで奪われるものもある」【『Cloud クラウド』公開記念インタビュー特集】

10月11日(金) 18:30

国内外で高い評価を受ける黒沢清監督が、菅田将暉を主演に迎えた『Cloud クラウド』(公開中)。第97回アカデミー賞国際長編映画賞の日本代表作品にも決定し、第29回釜山国際映画祭では、その年のアジア映画産業に大きく貢献した人物を表彰する「アジアン・フィルム・メーカー・オブ・ザ・イヤー」を黒沢監督が受賞するなど、黒沢ワールドの魅力に世界の映画ファンが熱狂している。
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6月にはフランスの芸術文化勲章オフィシエを受章していた黒沢監督


『Cloud クラウド』の公開を記念して、黒沢監督にとことん語りまくってもらうインタビュー連載を展開中。第4回は、黒沢監督の「源流・原点」をテーマに、映画評論家の轟夕起夫がインタビュー。映画との付き合い方や、再構築したい“映画の文法”、師・蓮實重彦による理論の解釈まで語ってもらった。

「生活を変えたい」という想いから、世間から忌み嫌われる“転売ヤー”を副業として、日々まじめに働く主人公の吉井(菅田)。ある日、勤務するクリーニング工場を辞職した吉井は、郊外の湖畔に事務所兼自宅を借り、恋人である秋子(古川琴音)との新たな生活をスタートする。転売業を軌道に乗せていく吉井だったが、彼の知らない間にバラまいた憎悪の粒はネット社会の闇を吸収し成長。“集団狂気”へとエスカレートしてしまう。前半は冷徹な「サスペンス」、後半は1990年代の黒沢監督作品を彷彿とさせる「ガンアクション」と、劇中でジャンルを転換する構成で観客を呑み込んでゆく。

■「おもしろくてまったく分析できないことは、いまもよくあります」

――この『Cloud クラウド』で初めて組まれた菅田将暉さんですが、聞くところによると、菅田さん主演の映画やテレビドラマをいろいろご覧になられていたそうで。そういった作品を観ながら、「自分だったらこう演出するのに」と思うことなどあるのでしょうか?

「ある、と言えばそうですかね。最初は無論、“自分だったらどうしよう”というのは考えずに見始めます。純粋に“お楽しみ”として見終わることもあるのですが、途中で『なるほど〜、この手があったか』とか『あれ?僕だったらこうするな』だとか、いきなり仕事モードが発動してしまうこともあります」
黒沢監督と初タッグとなった菅田


――やはり職業柄そうですよね。商業映画監督になられてもう、何十年も経っていますけど、例えば1970年代、8ミリ映画を撮り始めたころは、もうちょっと映画との付き合い方が違っていましたか。

「そこは、昔から“お楽しみ”であり、でもこの映画はどうやって作られているんだろう、というのはよくありました。1回観て、これはすごい映画だと感じ、2回目は、どう撮られ、どんな演出がされているのか、よーく凝視してみようとなる。で、勇んで臨むのですが、結局すぐにのめり込み、分析できないまま『また単に観てしまった』となる作品も多々ありましたよ(笑)」

――それって、映画への最高の誉め言葉です!

「おもしろくてどう撮っているのか、まったく分析できなかったっていうのはいまもよくあります。近年ですと『ザ・スーサイド・スクワッド“極”悪党、集結』。どう撮ってるんだろうって3回ぐらい観たんですけど、結局見呆けてしまいました」
全員終身刑の悪党たちが活躍する『ザ・スーサイド・スクワッド“極”悪党、集結』


――そもそも黒沢監督はアメリカ映画好きで、1975年、立教大学に入って多大な影響を受ける蓮實重彦さんの「映画表現論」を受講する以前から、そういうエンタメ作品をたくさん浴びていましたよね。

「ええ。サム・ペキンパー、ロバート・アルドリッチ、リチャード・フライシャー、ドン・シーゲル、トビー・フーパーの作品など、『うわー、おもしろい』という娯楽映画と無数に出会えていました。その時の体験や記憶はベースとしてもちろん、非常に強く残っています」

■「“映画の文法”が成り立つ世界を、僕なりに再構築したい」

奥平演じる佐野は、“ある組織”から拳銃を手に入れる

――『Cloud クラウド』はまさにエンタメ作品で、黒沢映画おなじみのスクリーンプロセス(あらかじめ用意した映像をスクリーンに投影、背後にしてスタジオで俳優が演技を行う)も出てくるわけですが、個人的には新東宝、中川信夫監督の『地獄』(60)を連想したんです。菅田さん演じる吉井のアシスタント、奥平大兼さんが担った“佐野”が同じくメフィストフェレス的でして…。

「ああ〜、主役の天知茂に対し、沼田曜一さんが演っていたあの不気味な男ですか!奥平くんにお願いした佐野については、『どういう設定なんですか?』といろんな人に訊かれました。劇中では、なにか組織に属しているようなことを仄めかしますが、アシスタントとして、主人公をどこかとんでもない地点へ導いていく。僕もある時から、『わかりやすく言えば悪魔です』と答えていました。西洋の悪魔とは若干違うかもしれませんけど悪魔的な存在。中川監督は好きですし、沼田曜一さん的なイメージは、指摘されてみればあったかもしれません」

――黒沢監督の体内に染みついている別の側面、往年の怪奇ロマン、あるいは恐怖映画のテイストが、顔を覗かせたのが興味深いです。

「ざっくり言いますと、映画ならではの時空間、“映画の文法”が成り立つ世界を僕なりに再構築したいと常に思っているんです。けれども現代の日本映画で試みるのは簡単な作業ではなく、目の前の現実から始めたら、なかなかその世界に辿り着けないんですね。これは随分と前から自覚していて、撮影所システムが健在だった往年の作品を見ると、冒頭からあっという間にその“時空間”に突入してしまっている。日本でいま、それをやろうとすると現実を無視してスタートするしかないのですが、さすがに完全に軽んじることはできません。ここが何十年にわたって四苦八苦し、毎回自分を葛藤させている課題なんですよ。例えば先ほどの『ザ・スーサイド・スクワッド』みたいな、ある種のアメリカ映画は平気で現実と映画的な“時空間”がスムーズに融合しているようでいて、本当に羨ましい。だから自分の作品でもどこかのタイミングで、現実のトレースではない、映画ならではの世界に踏み出し入っていきたく、その一つがあのスクリーンプロセスの場面でした。スタジオで照明などをコントロールできますし、映画的ななにかが作動してくれるんじゃないか、とね」
スクリーン・プロセスが使用して撮影されたバイクのシーン


――『クリーピー 偽りの隣人』(16)や『散歩する侵略者』(17)の時のスクリーンプロセスとはまた、与える作用がちょっと違いました。

「そうですね。ただし『クリーピー』も『散歩する侵略者』も“もう大丈夫だろう”ってところでその手法を使いました。冒頭から『映画だから』と、はしゃいで何度も失敗している経験がありますので(笑)。案外、慎重派なんです…いや、課題を一切放棄してもいいんですよ。映画的な飛躍を捨象し、現実のなかだけで語りきり、正々堂々と振る舞えるのならばいい。でも僕にはそんなふうに居直れるだけの度胸がなく、映画なんだからやっぱり特別になにかをやらなくては、と考えてしまうんです」

――終盤の銃撃戦もあからさまな映画的趣向ですよね。そこで、濃厚な時空間を作り出していこう、という。

「銃撃戦は昔からのささやかな欲望としてありましたし、今回のプロットにおいては、映画ならではの愉しみを保証するシークエンスだと確信して、比較的時間とお金を費やしてやりました。どんなふうに銃を撃ち、人がどう被弾して倒れるか、といったディテールは念入りにこだわりましたね。元々、日常的には暴力と無縁な者同士が、最終的には“殺し、殺される”極限の関係に陥ってしまうアクション劇をやりたい、というのが本作の企画の端緒でした。かっこ悪くてドタバタとした、見ようによっては間抜けで滑稽な殺し合いなんですが、当人たちにとっては必死な戦いで、手慣れてないので捨て身にならざるを得ない…そういうアクション劇を展開させたかったんですよね」
黒沢監督のモチーフが頻出する廃工場での銃撃戦


――今年、先行して公開された、フランスリメイク版の『蛇の道』(24)に登場するロボット掃除機みたいに動き出したら止まらない、自動機械的な暴力世界みたいな?

「はい。それもまた、映画というフィクションの醍醐味の一つだと捉えています。物事がある段階で止まってもいいはずなのに、バタバタといろんなことが起こりだし、もう止まらない、止められない理不尽さと言いますか。でもさすがに、社会情勢とも被る部分もあり、『戦争ってこういう状況なのかも』という考えがよぎって、撮影現場で俳優さんたちには『ここは戦場だと思ってください』と伝えました。なぜ殺すのか、なぜ殺されるのかっていう疑問は互いに問わない。ひたすら“殺すか殺されるか”の関係ですよ、と」

■「僕自身にも天邪鬼な面があり、『本当にそうか?』という気持ちが湧いてくる」

人を笑わせる、コメディとしてはほとんど撮ったことがないという

――以前、『ドッペルゲンガー』(03)の時、初めて黒沢監督への取材の機会を得たのですが、出演者で対談相手だった永作博美さんがナンセンスな作風に「クリアな数式なのに解答をボヤかして、人を煙に巻くような映画」と感想を述べられ、膝を打ったんです。翻って『Cloud クラウド』も監督らしいナンセンス風味が漂っている気がするのですが。

「僕は映画で人を笑わそうって気は、ほとんどないんですよ。Vシネ、オリジナルビデオの『勝手にしやがれ』シリーズなんかは若干そっち方面に傾いたことがありまして。フィルムで撮り、劇場公開もされたのですが、ほぼ誰も笑わず、あれは本当にツラかった(笑)。ただ、笑わせようと思ってはいなくても、場合によってはなにか妙な可笑しさを醸し出すことはあるかもしれない。意図してなかったのに、現場で役者さんによって、動きの奇矯さやセリフの暗喩が粒立ったりして。ナンセンスさは、どうも僕自身にも天邪鬼な面があり、描いている物語に対して『本当にそうか?』という気持ちが湧いてきたりするんですね。リアリティを積み上げていく一方で、いやいや、とブレーキを踏んでしまう自分がいる。恐怖描写も然りで、別のベクトルや真逆のニュアンスのシーンやセリフを入れてしまうことがあります」
菅田は『太陽がいっぱい』を参考に、真面目に悪事を働く転売ヤーを演じた


――菅田さんが「こんなに笑った映画はない」とコメントされているので、きっとツボだったのでしょう。

「繰り返しますが、決して笑ってもらうために作ってはいないんですけど、登場人物たちがあそこまで、滑稽なまでに殺し合いを演じますからねえ。主人公の転売屋、吉井は犯罪すれすれ、ギリギリのところでなんとか生き延びようとしている。根は真面目な人間ってことなんですけど、観客が一緒に共感できるような男ではありません。そういえば近年、ヒーロー、ヒロインとしての犯罪者ってほとんど見なくなりましたよね。菅田さんには今回、アラン・ドロン主演の『太陽がいっぱい』を参考に見てもらったのですが、『あんなにまじめにコツコツと、懸命に悪事を働く主人公像は初めて見ました』と述べられていましたよ。社会的な貧困や差別が公然とあった時代のストーリーラインで、僕は映画がかつてからよく描いていたキャラクターの印象を持っていましたが、新鮮だったんだなあって」

――ちなみに、「勝手にしやがれ!!」シリーズの主演、黒沢組の哀川翔さんご本人から、『太陽がいっぱい』は大好きと伺ったことがあります。

「そうですか。哀川さん、僕と同様、はみ出し者が“映画の華”であった世代なんですね」

■「無意識に奔放な女性の役には、“アキコ”と付けがちかもしれません」

――黒沢映画の主人公や主要人物に、若者が選ばれるケースが増えていますけど、その理由は?

「やっぱり映画の主人公って“若くありたい”んですね。社会からの風当たりは強いし、彼なり彼女なりにこの先どうしていくんだろうという気配をまとっていて目が離せない。良し悪しを含めて、観客の心を一瞬で掴んでしまう。かたや中年なり、初老の人物が意外なことをやってしまうというのもまた目を引くわけで。僕の年齢からしたらそっちこそを追求すべきなのでしょうけど、若い主人公の映画も捨てがたいんですね。おそらく『回路』や『アカルイミライ』あたりが分岐点だったのかと。ちょうどその辺りで自分がもはや、若くはない中年となり、キリのいい2000年以降、増えていった。とは言いながら天邪鬼的に、僕自身の年齢と撮る映画はなんの関係もないはずだという気持ちもあり、両方の見解を行ったり来たりしている感じですかね」
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――なるほど。細かいことですが吉井の恋人、扮する古川琴音さんの役名は「秋子」でした。監督の作品に登場する女性によくこの名前を付けるのは、面倒くさいからだとよく説明していますが、厳密には分けることはできませんけれど奔放なキャラが多いのかなあと勝手に想像しています。

「いや、そうかもしれません。本当に名前は適当に決めているんですけど、無意識に奔放な女性の役には、確かに付けがちかもしれません」

――漢字は違いますが「明子」は長編劇場デビュー作『神田川淫乱戦争』(83)で麻生うさぎさんに。「秋子」は『ドレミファ娘の血が騒ぐ』(85)の洞口依子さん。彼女が劇中、唐突に「くるっと回る練習」をするシーンが大好きなんですけど(笑)。

「なぜ、あんなことを洞口さんにさせたのか自分でもよくわからない…そこまで古い作品には責任を持たないようにしています(笑)。考えればまあ、ジャン=リュック・ゴダールの映画で、アンナ・カリーナかアンヌ・ヴィアゼムスキーが近い動きをしたシーンがあったような」
『ドレミファ娘の血は騒ぐ』で映画デビュー作&初主演となった洞口依子が、主人公・秋子を演じた


――初めて『ドレミファ娘の血が騒ぐ』を見たのが公開前、蓮實重彦さんが対談のゲストで、黒沢監督自ら、鈴木清順監督の『河内カルメン』(66)を選び、2本立てで上映した記憶があるんです。1985年、場所は池袋の“スタジオ200”でしたか。

「朧げに覚えています。『河内カルメン』は好きでしたからね。あれも主演の野川由美子さんが奔放な女性の役でした」

■「これだけ経験を積んできていても、毎回“一か八か”なんです」

蓮實重彦の理論を、黒沢監督なりの解釈で語ってくれた

――蓮實さんと言えば、批評家として数々の卓見があり、「映画は、向かい合う2人が交わす視線は撮れない」もそうで、すなわち、画面に具体的に映っているものが論じられる。しかし、蓮實理論から排除される「心理」や「内面」も映画監督は否が応でも扱ってしまうものです。

「蓮實さんのレトリックは、なかなかトリッキーなんですよね。僕も実際には登場人物の内面らしきものを描いているだろうし、少なくとも通常の劇映画では脚本があり俳優さんがいて、読んで演じる時点である種の心理描写は醸成されるでしょう。蓮實さんの言わんとしていることを僕なりに解釈しますと、登場人物の心理状態を説明するためのみに機能するショットというのはよろしくない、と。つまり、アルフレッド・ヒッチコックの映画を観てもそうなんですが、物語を追ううちに当然、人物の心理は付随して読み取れ、だがさらに映画ならではの運動性によってこそ観客は大きく心打たれる、のだと。ここで難しいのは“どこから撮るか”なんです。顔のクローズアップを撮れば心理状態はよく伝わる。けれども、カメラ位置を結構引いても伝わったりする。じゃあ、人物が後ろを向いたらどうだろうと試してみる。一見伝わりづらくなるんですが、しかしこれ、本当に不思議なことで、俳優の力もある、映像の力もある、そして映画全体の構造も関わってきて、かなり引いた画で後ろを向いていても効果的に心理状態以上のものが伝わってくるんです。そこを見極めるのは至極の技なのですが映画作りのおもしろさでもありますね。顔のクローズアップにして奪われてしまうものもある。それ以外はなにも伝わらなくなるので」

――そうした、試行錯誤の冒険を全ショットでされているんですね。

「果たして冒険なのか…でも冒険と言えば冒険ですね。これだけ経験を積んできていても毎回“一か八か”なんですよ。判断するのは観客の皆さんで、『伝わっているよね? これ』『多分、伝わっているはず』なんて、作った僕らは確証を持てないままでいるんですから(笑)」
『Cloud クラウド』は公開中


取材・文/轟夕起夫


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