『Cloud クラウド』黒沢清が語る、”ジャンル映画”と添い遂げる覚悟。“作家”ではなく“職人”であると自認する、その理由【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】

宇野維正の「映画のことは監督に訊け」、最新回は『Cloud クラウド』が公開中の黒沢清監督/撮影/黒羽政士

『Cloud クラウド』黒沢清が語る、”ジャンル映画”と添い遂げる覚悟。“作家”ではなく“職人”であると自認する、その理由【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】

10月9日(水) 21:31

全編フランスロケでの『蛇の道』(98)のセルフリメイク、観る者を恐怖で凍りつかせる中編作品『Chime』(公開中)、そして主演に菅田将暉を迎えた『Cloud クラウド』(公開中)。新作の公開が続いた2024年は、その量においても、質においても、そしてなによりも「ジャンル映画への回帰」という意味においても、1990年代後半から2000年代前半までの傑作連発期以来となる「黒沢清の年」となった。もっとも、来年のアカデミー賞国際長編映画賞の日本代表作品として『Cloud クラウド』が選出されたことが象徴しているように、20数年前の日本映画界で黒沢清が立っていた場所と、現在の日本映画界で黒沢清が立っている場所は違う――いや、「本当に違うのか?」というのがこのインタビューのメインテーマだ。
【写真を見る】黒沢清監督自身は”ビニールカーテン”や”スクリーン・プロセス”といった頻出モチーフをどう捉えている?
世界中の映画ファンから熱狂的に受け入れられている『Cloud クラウド』(公開中)


国内においても国外においても、メジャー配給のエンターテインメント作品とアートハウス系作品はその予算規模、配給体制、宣伝展開、上映スクリーン数、そして観客層などすべてが違っていて、当然のように一つの作品が成功したか否かという視点においても、それぞれ異なる基準を持ち込む必要がある。しかし、これまで黒沢清の作品はジャンル映画(≒エンターテインメント作品)を志向しながらも、同世代のどの監督よりも作家(≒アートハウス系作品)として称賛されるという大きな“ねじれ”の中で(少なくとも日本の観客の間では)消費され、記憶されてきた。

とりわけ、ジャンル映画として極限まで研ぎ澄まされ、そこにスター映画という要素も大きくのっかった今回の『Cloud クラウド』は、そのような黒沢清の“ねじれ”を、監督本人との質疑応答によって解いていくのには最適の作品ではないだろうか。劇場で『Cloud クラウド』の容赦のない無慈悲さに打ちのめされた観客も、あるいは少々戸惑った観客も、このインタビューを作品と作家(いや、「職人」と言うべきか)への理解に役立てていただければ幸いだ。

■「気持ちよく立て続けに“ジャンルの中で戯れていていい”という時代はいつの間にか終わってしまった」(黒沢)
”ジャンル映画”への敬愛と矜持を語ってくれた黒沢清監督


――日本での公開は『蛇の道』『Cloud クラウド』という順番で、その間に『Chime』の劇場での上映もあったわけですが、それぞれ撮影時期はどういう順番だったんですか?

黒沢「全部2023年で、フランスで『蛇の道』を撮ったのが4月から5月にかけて、『Cloud クラウド』を撮ったのが11月から12月にかけて。『Chime』はその間に撮りました」
『Cloud クラウド』の撮影は2023年の11月から12月にかけて行われた


――撮った順に世に出てるわけですね。

黒沢「そういうことになります」

――『蛇の道』だけを観た時点では、あれは企画自体が1998年の作品のセルフリメイクだったので、そのまま受け取ったわけですけど。その後、『Chime』『Cloud クラウド』と続けて観ていくと、もしかして現在の黒沢監督は、90年代後半から00年代前半にかけてスリラー作品やホラー作品を連続して手掛けていた時代に回帰しているのかもしれないと。そういう指摘をする人は、自分だけじゃないと思いますが。

黒沢「そう見えるかもしれないですし、特にセルフリメイクの『蛇の道』がそれを強調しているんだと思うんですけど、あんまり『あの時代をもう一度』みたいなことは意識していないんです。偶然、そういう企画が昨年連続して実現したというだけで。『Cloud クラウド』も、実際に脚本を書き始めたのはもうだいぶ前なんですね。ただ、なかなかそうすんなりと企画は通らず、その間にはコロナもあったりして」

ラーテルという名で転売業を行う吉井

――脚本の段階では、主演が菅田将暉さんというのも決まってなかったんですか?

黒沢「はい。当初はまったく。理想として菅田将暉さんというのはあったんですけど、めちゃくちゃお忙しい方ですから。それが、菅田さんに出ていただけることになって、急にバタバタと実現していった感じですね。だから、おっしゃっていただいたことを踏まえて言うならば、僕はやっぱり隙あらばジャンル映画を撮りたいんです。90年代にVシネマを撮っていた時期も、特にそこでは哀川翔さん主演のヤクザ映画っていう一つの枠を与えられたので、だったらその枠の中でそのジャンルを突き詰めたようなものをやりたいと思ってやってきて、非常に楽しい日々を過ごさせてもらいました。その後も、隙あらばホラーであったり、スリラーだったり、そういうジャンル映画的な作品を撮ってきたわけです。ところが、Vシネマをやっていた時代のように、気持ちよく立て続けに“ジャンルの中で戯れていていい”という時代はいつの間にか終わってしまった。ある時期から、どんなジャンルの作品にせよ、作った作品1本1本がどうなっていくのかを見届けて、結果として責任を引き受けなくてはいけなくなってきました。興行的な面においても、評価においても」

――まあ、作品に関わっている人数も、製作費も違ってきましたしね。

黒沢「そうですね」
「興行的な面においても、評価においても責任を引き受けなければいけなくなってきた」と黒沢清監督


――具体的には、いつごろからそういう実感を持つようになったんですか?

黒沢「2000年以降ですね。現場で集中していい作品を作れたらそれでいいという時代では、もうないんだなって、そのころに実感するようになりました」

――そこから日本の映画界全体を取り巻く環境はそんなに大きく変わったようには思えないのですが、黒沢監督の中ではなにか変化があったのでしょうか?

黒沢「いつごろからですかね。5、6年前、いや、もうちょっと前ですかね。Vシネ時代に戻りたいというわけではないんですけど、また、あんまり結果がどうなるかってことは考えないで、ジャンル映画の決まった枠の中でギリギリ自分がやりたいことができれば、それ自体がもう最大の結果なんじゃないかとも思うようになったんです。あのころに自分がそれで満足していたなら、いまの環境でそれをどうやれば実現できるのかを考えて、それが今年の『蛇の道』と『Cloud クラウド』だったことは間違いないです。同じ時期にそれが実現したのは、たまたまなんですけどね」

――『Chime』はその2作品とはちょっと違うのでしょうか? あれも、ホラー映画という意味ではジャンル映画的な作品だと思ったのですが。

黒沢「結果、『Chime』もそういう作品になったんですけど、あれはまたまったく違う流れで依頼を受けた作品で。普通の映画よりは全然短い、40分ちょっとの中編ということも含め、当初はジャンル映画的なものとは真逆にあるような企画でした。つまり、そんなに予算があるわけではないけど、それでなにをやってもいいですと。別に映倫に通す必要もない、R指定も関係ない、なにをやってもいいですと。『本当になにをやってもいいんですか?』っていう(笑)」
ありふれた日常に、異様な恐怖がうごめき始めた料理教室の講師を描く『Chime』


――はい(笑)。

黒沢「本来、なにをやってもいいなら、ものすごく平凡な作品でもいいわけですが、『なにをやってもいいんです』と言ったプロデューサーの本心を忖度するなら、『なにをやってもいいけど、これまで見たことないような作品にしてくれ』っていうことなんですね。そういう雰囲気を察したので、あんまり見たことがないような奇妙な作品、あたかも僕が自由奔放にやったかのような作品を作らせていただきますと答えました。でも、そこで僕が思い知ったのは、自分の趣味嗜好、才能っていうのは本当に限られてるんだなということで(笑)。やっぱり『なにをやってもいい』となると、ホラーっぽい作品、スリラーっぽい作品になっちゃうんですね。そういうところ、濱口(竜介)みたいにはいかないんです、やっぱり」

――(笑)。

黒沢「人がバタバタ死ぬようなものが、自分はやっぱり好きなんだなってことがわかりました。なので、『Chime』に関しては、ジャンルものという発想から生まれた作品ではないです」

■「黒沢監督も、気が付けば、そうした映画界の罠みたいなものをうまくくぐり抜けられたのかな?みたいな」(宇野)

――『蛇の道』と『Cloud クラウド』についても、先ほど「たまたま」とおっしゃってましたけども、では、この先、残りのキャリアをジャンル映画の作り手としてまっとうしようみたいな、そういう想いがあるわけではないということですね。

黒沢「特になにも決めてません。これまでもそれが僕の一貫したスタンスで、『次にどんな作品を撮りたいか?』と訊かれても『わかりません』と言い続けてきました。まあ、そう言いながら、今後もジャンル映画的な作品を作っていくかもしれませんが」

――1人の映画監督のキャリアとして、それはそれですごく美しいなという。

黒沢「美しい。まあ、そうかもしれないですね」

――例えばジョン・カーペンターは、ハリウッドのビッグバジェット作品を手掛けていた時期もありましたけど、一回りして、ジャンル映画的作風に戻っていったじゃないですか。

黒沢「そうですね、はい。『やっぱりジョン・カーペンターだよな』っていうのはいつもあるんですけど(笑)。ただ、あそこまでジャンルものをまっとうできるほど、映画に忠誠を誓ってはいないかもしれないですね。あるいは、デヴィッド・クローネンバーグのような人もいますが――いや、そういう人たちと自分を比較して話すのは、やっぱりおこがましいですね」
ホラー映画の金字塔『ハロウィン』(78)ほか精力的にジャンル映画を手掛けてきたジョン・カーペンター監督


――いや、全っ然おこがましくないですよ(笑)。近年、黒沢監督がインタビューなどでクローネンバーグに言及される機会が多くなっていることも気になってました。

黒沢「クローネンバーグ本人がなに考えてるかわかりませんし、全然もう雲の上の人ではあるのですが、彼はジャンルものとうまく付き合いながら、時にそこからはみ出たり、また戻ったりっていうのを、かなり巧みにやってきて、映画作家として一つの個性を生み出してきた代表的な監督だと思うんですね。カーペンターはあまりにも独特で、なかなか見習うのは難しいんですけど、クローネンバーグのようにうまいことつかず離れずジャンルものと付き合っていけたらいいなとは思いますね」

――作品がだんだん大きくなり、それに伴って一作一作が持つ意味が重くなっていき、結果的に作品の間隔がどんどん長くなっていく、あるいは撮れなくなっていく映画監督も少なくない一方で、クローネンバーグがまさにそうですが、巨匠化であったりとか、権威化みたいなものから周到に逃れることができる映画監督もいる。黒沢監督も、気が付けば、そうした映画界の罠みたいなものをうまくくぐり抜けられたのかな?みたいな。今年の3作品を観て、そんなことを考えたりもしたんですよね。
鬼才にして異端、”変態”とも評されるデヴィッド・クローネンバーグは御年81歳。最新作は『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』(22)


黒沢「まあ、自分のキャリアを自分でコントロールするってわけにいかないので、こうありたいという思いはありつつ、しかし目の前に『これをやりませんか』って依頼されると、一応映画監督も仕事ですから、無下に断るわけにはいかない。もちろん、『これはさすがにできないな』というものをお断りすることはありますけど、『まさかこんな依頼が来ると思わなかった』っていうものに対しては、『ちょっとおもしろいかもしれない』と思えるものがあるわけです。実際、やってみたら結構おもしろかったという経験もしてきましたし、それこそVシネマだってきっかけはまさにそういうものでしたから。だから、その繰り返しですよね。あんまり自分のキャリアが人からどう見えてるのかなどと、考えてもしょうがないかなと思っています」

――もちろんクリント・イーストウッドやスティーヴン・スピルバーグのように、70代や80代になっても黒沢監督がガンガン撮り続けている可能性は十分あるでしょうし、心からそうであってほしいと願っていますが、そろそろ「映画監督としてのキャリアの終盤」というのを考え始めるお歳なのかなとも思ったり…。

黒沢「それも、あまり考えようがないんですよね。というのも、海の向こうにはカーペンターだのクローネンバーグだの、もっと遡ればリチャード・フライシャーとかもいるわけですが、幸か不幸かというか、身近な存在として、つまりわかりやすく日本映画のご先輩みたいなところには、参考にできるキャリアを歩んでる方ってあまりいないんですよね」
リチャード・フライシャー監督の『ソイレント・グリーン』(73)はアレックス・ガーランド監督回でも話題に


――確かに、いないですね。

黒沢「はい。日本という環境、あるいは現代という時代に限るなら、自分がモデルとできるような方が本当にいないんです。だから、本当にどうしたらいいかわからない(笑)。『そんな歳になってもうそんなことをするのは変じゃないですか?』って誰かに言われたとしても、なにを基準に変なのか、ということなんです。仕方ないので、探り探り、行き当たりばったりやっていくしかないっていうことですかね」

――黒沢監督に初めてインタビューをさせていただいたのは確か『回路』(01)のタイミングで、その後もカンヌ国際映画祭で取材をさせていただいたりと、あのころはこのまま国際的な映画監督として巨匠化していくんじゃないかと想像していたんですよ。もちろん、実際に現在も国際的にとても高く評価されているわけですが、そうであると同時に、まるで若手監督のようなペースで予測不可能な作品を作り続けていて。

黒沢「本当にねらってこうしてるわけではなく、基本的には来るもの拒まずという姿勢で仕事を続けているだけで。そうすると、現代の日本ではこうなるという見本ですね(笑)」

■「成長といっても、それそれが美しいものとは限らないわけです」(黒沢)

――でも、もしかしたらそれは、黒沢監督がこれまで描いてきて作品の主人公にも重なるかもしれませんね。一般的な映画の物語では、ファーストシーンからラストシーンまでの主人公の成長を描くというのが一つの典型じゃないですか。

黒沢「はい」
ある日吉井は、勤めていたクリーニング工場を辞職する


――菅田将暉演じる『Cloud クラウド』の吉井も、物語の終盤、あんなに大変な思いをしたばかりなのに、安く仕入れたフィギュアが売れたことを喜んでいたりして、表面的にはまったく成長しているように見えない。そこにはどこか、映画が人間的な成長を描くことへの強い抵抗みたいなものも感じるのですが。

黒沢「おっしゃるシーンではそうなんですけど、今回はさらにその後に展開があるわけですよね。だから、あれを成長と言っていいかどうかはわかんないですけど…」

――ああ、なるほど。確かに、そこはこれまでの作品にはあまりなかったところかもしれません。

黒沢「そう。それまでは無自覚に悪に手を染めていた主人公が、最後の最後には、悪の道へと自覚的に入っていく」

吉井がたどり着く“地獄の入口”とは…

――あの「ここが地獄の入口か」という台詞は、そういう意味では文字通り受け取っていいものなんですね。

黒沢「はい。一番最後に、彼は自分が手を染めている悪にようやく気づいた。それでも、そのまま突き進んでいくことにした、っていうふうに。なかなか重たいっちゃ重たいラストにはしてあるつもりなんですけど」

――なるほど。自分はその前の段階の、人間なんて大して成長もしないし変化もしないんだよ、みたいなこところに黒沢監督の哲学のようなものを勝手に受け取っちゃって(笑)。

黒沢「成長といっても、それが美しいものとは限らないわけです。のっぴきならない事件を経た人間は、変化してないように見えても、実際は変化するような気はしますね。それを成長と呼ぶかどうかはわからないですけど。『Cloud クラウド』は終盤になって突然いろんなことが起こるわけですが、そこを菅田さんはとても巧妙に演じてくれたと思います。僕は、秋子が再び現れた時の、あの無防備な笑顔が大好きなんですけど」

吉井の謎多き恋人、秋子を演じた古川琴音

――ああいう表情、菅田将暉さんはすごいですよね。

黒沢「あそこもやっぱり全然成長してないですよ。いや、また裏切るに決まってるだろうって」

――いかに他人の感情に関心がないかという。

黒沢「でも、その全然成長してないかのように見えた吉井が『ここが地獄の入口か』と呟く。その一連の流れを、菅田さんは本当に見事に演じていて」

――”転売ヤー”という主人公の職業の設定については、ほかの取材でもお話になっていると思うのですが、これまで映画の中ではほとんど見たことがないあの職業のチョイスと、それを演じる菅田将暉さんが、本作に黒沢監督のほかの作品にはない不思議なリアリズムをもたらしている。特に前半部分では。

黒沢「おっしゃるようなことを一応ねらいはしました。つまり、ごく普通の現在の日本に生きている、暴力沙汰とかはまるで無縁であるかのような人々が、いろんなきっかけで、殺し合いを演じることになるっていうのがこの作品の当初のねらいだったんです。それは主人公だけでなく、ほかの登場人物もそうなんですが。最終的にアクションを描くには、ヤクザだとか刑事だとか自衛隊上がりだとか、そういういろんな特殊な設定にしておくといろいろやりやすいんですけど、今回は絶対にそうしたくないと。いまの日本で、順風満帆に生きているわけではないけれど、どこにでもいそうな人たちが出てくる映画を作りたかった」
”どこにでもいそうな人たち”を登場させた理由を語る黒沢清監督


――主人公の吉井は、ある種の自己責任論者でもありますよね。

黒沢「そうですね。だから、いつの間にか周りが危機的な状況になってくるわけですが、それもなんとか自分だけの力でくぐり抜けて、生き延びようとする。そういういまの日本に生きている普通の人間が抱えている矛盾だとか、揺らぎだとかを、菅田将暉さんは絶妙に演じてくれました。いい人とも悪い人ともつかないし、人ともある程度までは付き合うけれど、ある一定のラインは超えない。そういう特徴のない、特徴がないということが特徴の主人公。そういう主人公が暴力沙汰に巻き込まれてしまうところを描きたかったんです」

――ただ平凡だったり、ただ受動的だったりするだけでなく、あの主人公には困難を打開しようとする意志やある種の有能さもあって。それが黒沢監督の作品の主人公としては新鮮でした。

黒沢「強く意識したわけじゃないですけど、確かに、自分の力で、自分一人だけで立ち向かっていこうとする、ああいう人ってあまりこれまで僕の映画に出てこなかったかもしれません。対比としては、組織に所属している人間がいますよね。ポジションはいろいろありますが、会社組織や警察組織、ヤクザ組織の中の人、あるいは大学生でもいいですけど、そういう”組織に所属している普通の人”というのは、これまでわりと出してきた記憶があるんですけど。吉井のように、まったく単独で生きていこうとしている普通の人って、これまであんまり出さなかったかもしれないですよね。そういえば、主人公がオートバイに乗って走っている、ああいう映像、僕はこれまで撮ったことがなかったんですよ」
序盤では、黒沢作品には珍しいオートバイが登場するのが印象的


――ああ、言われてみれば。

黒沢「たった一人、風に向かって、不安定なんでちょっと転んじゃったりもするんですけど、前へと進んでいく。そういう意味では、オートバイって象徴的ですよね。一人で運転しているにしても、車を運転しているのとは全然違う。車の場合、家庭とか組織とか、もうちょっと安定したなにかを持っている人間が、一時的に孤独になって、車内の囲まれた空間の中で前進している。オートバイというのは、それとも違うわけです」
■「いわゆる「黒沢清映画のシグネチャー」が出てきますよね。もはや「ファンサービスなのかな?」みたいな(笑)」(宇野)

――やってることは全然ヒロイックじゃないのに、どこか主人公がヒロイックに見えるのも、それが理由かもしれませんね。主人公と対立するのが、闇サイトで集まったうだつが上がらない群衆であるというのも大きいのかもしれませんが。
吉井(=ラーテル)に悪意を持った男たちが、レトロな雰囲気のゲームセンターに集まる


黒沢「主人公がなにか危機的な状況に陥って、殺す/殺されるという関係になるだけだったら、単独の悪い存在、モンスターみたいな男にねらわれるとか、そういう恐ろしいキャラクターを設定できなくはないんですけど、この作品では単独犯にしたくないっていう想いがあったんです。ただ、複数の人間が襲いかかってくるとなると、途端に難しいんですよね。集団であるからには、集団を統一する、集団が共有している原理が必要なわけです。そうするとまず思いつくのはヤクザ。ヤクザも――現実のヤクザの方を僕はよくは知らないですけど――昔は仁義みたいなものがあったんでしょうけど、現在のヤクザって本当に価値観が統一できているのか、ちょっと怪しい気がします。すると、カルト教団とかテロリストとか、もっと言うと宇宙人とかですね(笑)。統一されたなにかで動いてそうな感じがするってなると、そういうことになってきたりするんですけど、カルト教団とかテロリストとか、宇宙人はちょっとわかりませんけど、そういうのって実は決して”悪”ではないわけですね。向こうからすると“善”だったりする。でも、今回は善対善の激突はなく、明らかに悪意をもって攻めてくる集団を描きたかったんです。その場合、なにで彼らは統一されてるのかなっていうのは、相当悩んだんですけど。あ、まとまってなくていいんだっていう(笑)。なにもまとまりのない、唯一あるとしたら、1人1人が割とみんな主人公に似ている」

――ああ、確かに似てもいますね。

黒沢「はい。みんな人生の崖っぷちにいるというのは一緒で、統一した価値観はなにもない主人公とどっか似たり寄ったりの人たちが、あからさまな悪意のみで集まってくるという。悪意以外の共通点はなにもない人たちが主人公に襲いかかってくる、そういう構図に最終的にはなりました」

奥平大兼演じる吉井の助手・佐野が、物語を大きく動かす

――そうなると、奥平大兼が演じている、主人公の助手の佐野の特異性がより浮き上がってきますね。

黒沢「佐野に関しては、ぶっちゃけ、ああいう存在がいないとやっぱり反撃できないよねっていう(笑)」

――ああ、もうストーリーテリング上の都合という(笑)。

黒沢「はい。拳銃を用意するのも彼ですし。日本だと、そうそう拳銃なんてゴロゴロないわけですし。だから佐野だけが、ひょっとしたらヤクザと繋がってるのかなんなのかわかりませんけども、そういう従来の、悪者というか、従来のああいう、アクションをしそうな気配のあるところとつながった人なんですね。銃の扱いも慣れていて」

登場する銃器にも黒沢監督のこだわりがこめられている

――奥平大兼さんの存在感はこの作品の大きな発見の一つだったんですけど、佐野の吉井に対するあの忠誠心は一体どこから来てるのかというのが謎で(笑)。

黒沢「現代の日本だと、このくらい都合のいい人が出ないと、なかなか物語が成立しないんですよ。そこは、これまで作ってきた映画とも共通したところでもあるんですけど、危機的な状況っていうのは、”だんだん”訪れてくるんです。その“だんだん”を描く時に物語をどう作っていくかって言うと、主人公はちょこちょこ危機的になりながら、一方で危機とは関係のない日常的な営みをしているっていう描写になるわけですね。そのなんでもない、主人公にとっての日常をどう規定するかっていうところに、知恵を使う必要があって。日常といっても、そうそう安泰なものではないですよっていう雰囲気をどうやって作り出すか。それはいつも考えていることです。例えば、犯人を追っている刑事が危機的状況に陥って、でも家に帰ったら奥さんがいて、それは一応平凡な日常ではあるんだけど、奥さんとの関係もちょっと怪しくなってきて、それが事件の状況とも重なってくる、みたいな。大体僕がよくやる手口なんですけど(笑)」

――(笑)。

「今回も、主人公の吉井がいろんな人の恨みをちょこちょこ買いながら、でも着々と転売ヤーの仕事を続けているなかで、恋人の秋子や助手の佐野という、本来は自分の味方であろう人たちが、そうでもないっていうふうにだんだん見えてくる。そういう意味では、同じ手口なんですよ」

――同じ手口という点では、これは改めてちゃんとお伺いしたいんですけど、今回の『Cloud クラウド』にも揺れるビニールのカーテンだったりとか、スクリーンプロセスの運転シーンだったり、いわゆる「黒沢清映画のシグネチャー」が出てきますよね。もはや「ファンサービスなのかな?」みたいな(笑)。

黒沢「自分としては、あれをシグネチャーと思ったことはないんですよ。ジャンル映画まがいのものを現代の日本映画という枠で撮ろうとすると、あれしか選択肢ないでしょうっていう」

――それは予算感も含めてということですか?

黒沢「予算もそうですし、時間もそうですし。例えば、車を走るシーンをスクリーンプロセスでやることを、さもそれが作家性であるかのように言われることが多いんですけど、僕からすると『ほかにどんな手があるんですか?』っていう。いや、ほかの手もありますよ。あるんですけど、まずつまらないというのと、つまらないのにスクリーンプロセスよりもっとお金も時間もかかる。僕もいろいろやってきましたけど、スクリーンプロセスが、最も作る側がコントロールできて、かつ安上がりなんですよ。ビニールのカーテンもそうですね。あれもすごく安上がりなんですよ」

――(笑)。
物語後半の銃撃戦では、廃工場が舞台となっていく


黒沢「遠くまで見通せるようなロケ場所で、ちょっとした遮蔽物が欲しいなあっていう時に、最も安価に空間を遮ることができて、それが風が吹いた時にちょっとなびいたりするものといったら、ビニールのカーテンしかないんです。だから、僕が選んでるのではないです。映画が選んでる」

――(笑)。じゃあ、例えば、予算が5倍、あるいは10倍あった場合でも、同じことやりますか?

黒沢「同じことやるかもしれません(笑)」

――コントロールできるっていうのも重要なんですね。予算だけじゃなくて。

黒沢「まあ、そんな膨大な予算があったことがないのでなんともわからないですけど。でも、あれは作家性ではないんです」

■「誰もなんとかしないとと思わなくなったら、その時にたちまち崩壊するのではないかという気はしますね」(黒沢)

――黒沢監督が国外の映画祭などで高く評価されるようになってからもう25年くらい経つわけですが、その四半世紀の間、黒沢監督の作品を取り巻く環境というだけでなく、日本映画全体を取り巻く環境というのは、少なくともお金の面では大きく変わってないと思うんですね。

黒沢「そうですね。25年前と、実はほとんど変わってない気はしますね。さらに言うなら、そのもっと前から、ずっと変わってない気がします。逆に言うと、ずっとギリギリで、もう駄目だ、ろくなことはないって言われながら、ここまでもってしまっている」

――そうですよね。

黒沢「しかし、ずっともってきたことで、その先にようやくいい兆しがあるかっていうと、いい兆しなんてなにもない。なにもないのに、ここまでもっている。不思議だなっていう。ただ、ここまでもったからには、良くはならないかもしれないけど、まだしばらくもつかもしれない」
作家性とはなんなのか。職人としての監督業をたっぷり語り合った


――もっと不思議なのが、この25年間、あるいはそれ以前から、日本社会自体がそんな感じだということです。

黒沢「確かに、映画以外もそうなのかもしれません(笑)」

――さすがに5年後にはそうも言ってられないだろう、みたいなことは思うのですが。

黒沢「映画に関してのみですけれど、変わってないと言えば変わってないのですが、いやこれもうダメだよ、なんとかしないと、ちょっとでもなんとかなんないのって、そういう危機感を持っている人がごく少数いて、そのおかげ今日までなんとかもっている感じもします。僕もその1人でありたいなと思いますけども。誰もなんとかしないとと思わなくなったら、その時にたちまち崩壊するのではないかという気はしますね」

――そこでの、黒沢監督自身の日本映画界との距離感というのを最後にお訊きしておきたいです。もちろん、ご自身の作品の持つ力だけでなく、学校で映画を教えられているということも含め、新しい才能を輩出する上でも多大な貢献をされているわけですが。

黒沢「結局は最初の話題に戻ってしまうのですが、僕はジャンル映画が好きで、もっと広い言い方をするなら、それはつまり娯楽映画なんですね。自分はここまで、最高最良の娯楽映画が作りたいなという想いだけでやってきたので、ギリギリ、それをいまもやれていることに、なにかの意味はあるんだろうと思います。つまりなにが言いたいかというと、僕、作家ではないんですよ。全然作家じゃないんです。ただの職人です」
 「僕、作家ではないんですよ」と繰り返す黒沢清監督


――とはいえ、現代の日本映画界において、作家的に語られる映画監督の筆頭の一人であるというのも事実ですよね。

黒沢「語る方はジョン・カーペンターだって作家として語りますから。語る側はもちろん自由です。でも、作ってる側としては、それこそジャンル映画、観客を楽しませるための映画をずっと作ってきただけで、作家的な映画は作っていない。だから、自分は作家ではないんです。それは、作家の方が職人よりも上だとか下だとか言ってるわけではなく、作家の方は作家の方で、すばらしい方が日本映画界にはいる。そして、やはり日本映画をなんとかしなきゃと思って、日本映画をなんとか延命させるために腐心されてきた方の多くは、そういう作家の方たちだと思うんですね」

――はい。

黒沢「そういう方たちの力で、日本映画は今日まで生き延びてきたわけですけど、作家じゃない職人でそれをやってきた方というのは、逆に言うとほとんどいなかったなあという実感があります。なので、僕は職人という立場から、なんとかそれを続けたいと思ってます。可能な限り。作家映画だけになったら、映画はつまらないですから。作家の映画もあり、ジャンル映画や娯楽映画があって、その両方によって映画の豊かさが保証されると信じているので。作家ではない方向の映画をなんとか少しでも、その幅を日本映画の中でも広げていければなと思いますけれども」

――先ほどもおっしゃっていたように、黒沢監督自身、ロールモデル的な存在がいないところでここまで歩んできたわけですけど、今後、黒沢さんを一つの前例として「ああいうやり方があるんだ」っていうことを示していければということですね。

黒沢「かっこよく言うとそうですね。でも、現実は多分、若い人にとっては『ああはなりたくない』存在なんですよ(笑)。だから、皆さん作家になっていかれるんです。それでも、そこにいるだけで貴重だと思っていただければありがたいです」

取材・文/宇野維正


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