『女王陛下のお気に入り』(18)、『哀れなるものたち』(23)が世界で数々の賞を獲得し、快進撃を続けているヨルゴス・ランティモス監督と俳優エマ・ストーン。『Bugonia』(2025年米国公開)で2人の協働は4作目となり、栄光を分け合う盟友と言える関係を築いている。そのなかでも、公開中の3度目のコンビ作『憐れみの3章』は、これまで以上に一筋縄ではいかない怪作だった。
【写真を見る】カルト教団員を演じたエマ・ストーンとジェシー・プレモンスは、教祖となる人物を探し求めていく
■原点に立ち返ったともいえる、ランティモス監督渾身の一作
本作『憐れみの3章』の内容は、不穏な3つの物語がつづられるオムニバス。『哀れなるものたち』のキャストが複数揃っていることで、大作のあとの軽いはし休めのような類いの映画なのかと思いきや、驚くことに、むしろこちらのほうが濃厚な作家性を放つ衝撃作に仕上がっていたのである。実際、監督も「完成までに何年もかかった」と語っていて、苦心を重ねたうえでの一作だということがうかがえる。
また、今回は『女王陛下のお気に入り』『哀れなるものたち』のような原作がついた作品ではなく、監督と長年コンビを組んできた脚本家エフティミス・フィリップとの共同脚本によるオリジナルストーリーで、原点に戻った作品づくりに回帰している点も見逃すことはできない。つまり、これがランティモス監督本来のスタイルで表現された新作といえるのである。
そのあまりにも不穏で奇妙なストーリー展開は、デヴィッド・リンチ監督作を想起させるとともに、クエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』(94)のような巧みな構成を用意することで、常に観客を幻惑しながら、道徳や論理性が通用しない、ぞくぞくするような狂った世界へと導いていく。テンプレートが存在せず、まったく先の読めない展開の連続に、観客たちは深い森に迷い込んだ心境に陥ることになるだろう。これこそ日常を飛び越えた、充実した鑑賞体験と言えるのではないか。
とはいえ一方で、おそらく多くの観客が、「いったい、これはなんなんだ」と、混乱のうちに劇場を出ることになると考えられる。本記事では、そんな本作『憐れみの3章』の異常な内容がなにを意味し、作品がどのようなことを意図していたのかを、できる限り深いところまで考察していきたい。
※本記事は、ネタバレ(ストーリーの核心に触れる記述)を含みます。未見の方はご注意ください。
■3つの奇妙な物語で構成されたオムニバス
本作で語られるエピソードは3つ。それぞれのエピソードで、エマ・ストーン、ジェシー・プレモンス、ウィレム・デフォー、マーガレット・クアリー、ホン・チャウなどの俳優が出演しているが、まったく異なる役柄で登場しているのが興味深い。
そして、エピソードにはすべて、ランティモス監督の公証人(署名時の確認手続きをする役割)で友人であるというヨルゴス・ステファナコスが演じている「R.M.F.」という謎の人物が登場する。このことから、おそらくは一つの世界がそれぞれのエピソードの舞台となっていることがわかる。しかし、よく「似た人が世界に3人いる」と言われるように、この登場人物たちはそれぞれにかかわりがない。
■第1章「R.M.F. の死」
主人公は、プレモンス演じるロバート。彼は、デフォー演じる会社の上司レイモンドとは、公私ともに親密な仲だ。ロバートはレイモンドの要求に応えると、そのたびに相応の“ご褒美”を与えられてきた。
しかしある日、「猛スピードで乗用車を走らせ、人が乗っている特定の車に衝突してほしい」という旨の要求を受け、ロバートは狼狽することとなる。それは、「人を殺せ」と言われたも同然だからだ。「それだけはできません」と、彼は初めてレイモンドの求めを断ることにするのだった。そもそも、なぜそんなことをさせるのかも謎なのである。
ロバートが要求を断ると、彼の周囲で様々な異変が起こり始める。家に置いてあったレイモンドからの贈りものが消え、チャウ演じる妻も忽然と姿を消した。ロバートはあらゆるものを失っていくのだが、そのすべては、実はレイモンドから得たものだということが明らかになっていく。思えば、妻との出会いもレイモンドの指示によるものだった。
妻が消えた傷心のロバートは、かつてレイモンドに教えられた通り、高級なバーの廊下の床に倒れ込み、脚を怪我した姿を見せつけるといった作戦で、女性にアプローチをしようとする。レイモンドとの関係を断ち、彼の指示もないのに、その言葉に従っているロバートは、人格そのものまでレイモンドに提供されているのではないかと思えてくる。さらに、そうやって新たに知り合った女性リタ(ストーン)にも、レイモンドの影が見え隠れするようになる。
自分の存在意義に悩まされ、追いつめられたロバートの行動に、観客は驚かされることになるはずだ。しかし、真におそろしいのは、このエピソードが「ハッピーエンド」であるかのような演出で締めくくられることだ。起きていることの邪悪さと奇妙さが、肯定されているように見えるかたちで。
■第2章「R.M.F. は飛ぶ」
警察官ダニエル(プレモンス)の妻であり、海洋生物学者のリズ(ストーン)が、調査に出た先で消息を断ってしまう。精神的に追いつめられたダニエルだったが、そこにリズが無事見つかったとの報告が届くことになる。彼女は生きていたのだ。
だが、帰宅を果たしたリズの反応の細かな部分に、ダニエルは疑問を持つようになる。ほぼ元通りの妻であるように見えるのだが、言葉の端々や食べ物の趣向などに違和感をおぼえてしまうのである。その疑惑はしだいに深まっていき、ついにダニエルはリズを偽者だと考えるようになる。さらには、そんな荒唐無稽な疑惑を同僚のニール(ママドゥ・アティエ)に相談したり、勤務中に異様な行動をとったりするようになるのだった。
奇行が続いたことで家に閉じこもるようになったダニエルは、食事を拒み始める。リズはダニエルへの苛立ちを隠せない父親(デフォー)を制し、夫を献身的に世話するのだが、ダニエルはいまだに彼女を偽者だと思っているので、その好意を決して信じず、逆に悪意をぶつけ続けていく。そしてついには、あまりにも異常な要求をリズに突きつけるのだった。目を逸らしたくなるほどのおぞましい展開を迎えつつ、ここでもやはり物語は「ハッピーエンド」を迎えてしまう。
■第3章「R.M.F. サンドイッチを食べる」
ストーン演じるエミリーが主人公。彼女はアンドリュー(プレモンス)と共に、死者を蘇らせることができる特殊な能力を持った人物を探している。オミ(デフォー)とアカ(チャウ)が代表を務める、カルト宗教団体の教祖にするつもりなのだ。奇跡を起こせる教祖の条件は、双子の片方であり、もう一方が死亡していなくてはならないのだという。
夢のお告げによって、その人物の姿を認識したエミリーは、あるダイナーの従業員レベッカ(クアリー)が夢の人物にそっくりだということに気づく。そして、なぜか献身的に協力を申し出る彼女の導きによって、求めていた人物に接近することとなるのだ。
手柄を立てつつあるエミリーだったが、一方でトラブルに見舞われることにもなる。元夫(ジョー・アルウィン)によって、性的に清浄な状態が脅かされてしまうのである。じつは彼女が所属しているのは常軌を逸したセックス教団であり、信者は清浄な状態を保ちつつ、オミとアカとのみ肉体関係を持つことが許されるという、異常なルールを課されていたのである。
ヨルゴス・ランティモス監督は、これらのエピソードの異様さや、希望が描かれないと感じられる展開について、取材でこのように答えている。
「希望がない?分からない…ただ私は、ハッピーエンドの映画を撮っただけだ」
希望を提示しないような内容の映画なら無数にあるが、それをハッピーエンドとして描いている作品は稀有だと言える。なぜなら映画の構造の多くは、主人公に共感をおぼえさせることで観客をストーリーに惹きつけるのが基本だからだ。もし、道徳的に間違っていたり、共感できない行動をとる主人公が設定されていれば、それは多くの場合、肯定的に描かれることはない。その意味で本作は、この前提を積極的に破りにきているといえよう。
■カミュやベルイマン監督が題材としてきた「神無き時代」
倫理性や論理性に縛られずに物語を語り、しばしば理不尽な惨劇を表現することを、一般に「不条理劇」と呼ぶ。その代表的な作家が、小説家・劇作家のアルベール・カミュだ。不可解な理由から殺人を犯す人物を追った「異邦人」や、感染症によって無作為に人々が死んでいく「ペスト」などの代表作がそうであるように、不条理で理不尽な出来事を物語に反映させているのである。
非常にわかりやすいことに、ランティモス監督は、本作の物語を考案する際に、カミュの戯曲「カリギュラ」を読んでいたのだと述べている。この物語は、万事完璧なローマ帝国の皇帝カリギュラが、ある日を境に豹変し、彼自身がペストや戦争の権化であるかのように、貴族、平民の区別のない無差別な虐殺を始めるといった内容だ。カリギュラの蛮行はまさに、理不尽、不条理の極致といえるだろう。
また、スウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマン監督は、「神の沈黙」を題材とした映画作品を複数手掛けている。そこでは、神を愛する敬虔な人々が理不尽な目に遭うことを表現することで、神がいざという時になんの助けにもなってくれないという現実を突きつける。そこで人間がどういう心境にたどり着くのかが、この種のベルイマン作品の醍醐味となっている。
このような題材の源泉となっているのは、これらの作品が発表された時代に大きな影響力を持っていた、哲学者フリードリヒ・ニーチェの提唱した「神の死」や、ジャン=ポール・サルトルの「神の不在」という、哲学的概念であろう。近代的な社会の動きと時間の流れは、神の存在証明をより困難なものとしていったし、哲学における形而上的な位置ですら、その立場は危ういものとなっていた。カミュとベルイマンは、ほぼ同じ時代に、これらの影響を受けて「神無き時代」の葛藤と無常をテーマにしていたのだ。人は理由なく人を殺し、殺される。そこに神は介在しないのである。
■特定の人間が「神」のような絶対者になり得る現代社会
本作『憐れみの3章』のエピソードとして共通に描かれるのは、自分の自由意志をコントロールできない人々だ。1章のロバート、2章のリズ、3章のエミリーらは、自分に強い影響を及ぼす人物の要求にコントロールされ、常軌を逸した行動に出てしまう。そこに、なんの意味があるのかもわからないままに。そして、それを要求した人物たちは、単なる生身の人間に過ぎない。
ここに、「神無き時代」の不安が表出されている。科学や哲学が神を殺してしまったことで、現代の多くの人々は絶対的な指針を失ってしまっている。これまでは人間すべてが神を敬うべき弱い存在であり、神の前では人間同士の優劣など、さして意味があるとはいえなかった。その価値観のなかでは唯一、神への信仰心と道徳的な生活が、人間の生きる意味だったといえる。では、神という存在が希薄になればどうなるのか。それは、特定の人間こそが「神」に取って代わり絶対者になり得るということだ。まさに、カミュの描いたカリギュラがそうであったように。
戯曲のなかでカリギュラは、「この世界は重要ではなく、それを認めている者だけが自由を勝ち得る」と語っている。これは、“在る”ということになんの意味も見出さない実存主義的な観念を持っている者にこそ、自由意志が芽生えるということを意味した、カミュ自身の言葉であろう。
■ランティモス監督が本作で崩そうとした従来の感動のメカニズム
われわれ人間は往々にして、「人生に意味がある」ということを信じたいと願うものだ。そして、身近な人の死が無意味なものだということを信じたくないという想いを持っている。人間は本質的に、世界が根本的に不条理であること、人間の生はそもそも不条理であって、無根拠であるということから目を逸らそうとする。だからこそ、人間の価値を描く物語に涙し、苦難が報われる映画に心を震わせるのである。
しかし、それはある意味で“宗教的”な態度だといえるかもしれない。なぜなら、現実の世界では人間の価値や苦難の克服と同程度に、ややもするとそれ以上に、なんの意味もなく不幸な目に遭う人々が存在するからである。そういった無常観や恐怖に、日々さいなまれているからこそ、人々は感動の物語を必要とし、そこに救いを求めているのだといえる。映画や小説がそれを手助けするというのは、とどのつまり受け手の無言の要求に応え、従属的な姿勢でいるということである。
だがカミュや、ランティモス監督は、そんな人々の想いを引き裂くような物語を提供することで、われわれの夢を裏切り、反抗しようとする。それは作り手としての反逆的態度であると同時に、われわれをより現実的に則した思考へと導こうとする動きでもあるのではないか。そして、多くの映画作品が経験的に培ってきた、感動のメカニズムを破壊することでしか得られない境地へと、われわれを運んでくれるのだ。
このように、飛び抜けて自由で、どこに転んでいくのかわからない意図が不明のスリルを観客に与えてくれる本作『憐れみの3章』は、3つのエピソードを重ねることで、非常に意識的に観客の既成概念を崩そうとねらってくる。そして、「神無き世界」という前提を乗り越え、劇映画の常識すらも乗り越えた地点で、われわれに思考を促そうともしてくる。どのような考えを得るかは観客次第だが、そこに“より自由な”境地があるということこそを、本作はうったえたいのではないだろうか。そして、そんな体験を引き出そうとする、“意図ならざる意図”こそが、本作の本質だと指摘できるのである。
文/小野寺系
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