元女子バレー日本代表
宮下遥引退インタビュー後編
(中編:女子バレー日本代表での中田久美との関係岡山シーガルズ一筋で引退した理由も語った>>)
元女子バレー日本代表のセッターで、現役引退を発表した宮下遥さん。筆者はいつも引退する選手に同じ質問を投げかける。思い出深い、印象に残っている試合やシチュエーションを3つ挙げてください。そして、人生を変えた人を教えてください――。宮下さんにも同じことを尋ねると、彼女は少し目を伏せて考えたあと、一つひとつ記憶を辿るように答えていった。
15歳2カ月でVリーグデビューを飾った宮下遥photo by 坂本清
【バレー人生のなかで印象に残っている試合は?】――まずは、思い出深い、印象に残っている試合やシチュエーションから教えていただけますか?
宮下:ひとつ目は、初めてセッターとしてプレーした中学時代の試合ですね。
小学生の時は少年団でバレーをしていましたが、あまり記憶にないんです。中学校に進んでバレー部に入ったあと、入学して3週間くらいに行なわれた大会で、いきなりセッターで出たんですよ。ツーセッターだったので、ローテーションのなかの4つを先輩が、ふたつを私が担うフォーメーションでした。
相手はそこまで強くないチームだったんですが、初めてセッターとしてコートに立ったからか、相手コートにトスを上げるわ、果てしなく高いトスを上げちゃうわ、「お前は本当にセッターなのか?」という感じで......でも、1年生で初めてのポジションというのもあったんでしょうけど、あまり怒られませんでした。
私はずっと怒られるのが怖くて、人の目が気になる性格だったんです。だから、ミスをしてもいいから思いきりやりなさい、という感じで、監督もチームメイトも私を否定せずに背中を押してくれたのがすごくうれしくて、「めっちゃいい学校に来れた」と思いました。経験を積むごとに怒られることが多くなりましたけど(笑)、すごく感謝しています。
――セッター・宮下遥の"初陣"ですね。ふたつ目はいかがですか?
宮下:ふたつ目は、Vリーグのデビュー戦ですね。
――2009年の11月28日に行なわれた、久光製薬スプリングス(現SAGA久光スプリングス)との試合ですね。Vプレミアリーグ史上最年少出場記録の15歳2カ月のデビューで注目されました。
宮下:いつもテレビで見て、「かっこいいな」と思っていた日本代表の選手など、応援していた選手がネットの反対側にいるのは不思議な感覚でした。監督から「挑戦してみないか」と声をかけていただいた時は、セッターを始めてからまだ3年も経っていなくて、「今の自分がどれだけ日本のトップレベルで通用するんだろう」という楽しみな部分もありました。
でも、すごく大きな会場でたくさんの人に見られますし、テレビ中継もあるということで緊張感も当然ありました。そうして初めて立ったコートで、おそらく見ていた人が一生忘れないだろう"事件"が起きてしまって......
――チームメイトと交錯して前歯を2本折った場面ですね。鮮烈でした(笑)。当然ですが、痛かったですか?
宮下:かなり痛かったです。でも、痛いという感覚がなくなるぐらい、「15歳で前歯が欠けちゃって、一生このままなのかな」「この先、口を開けられなくなっちゃうかも。どうご飯を食べるんだろう」とか、いろんなことが頭のなかをぐるぐるしちゃって。未来への恐怖を感じました。
――ちなみに、前歯はどうされたんですか?
宮下:普通に差し歯にしました(笑)。でも、試合が終わってもホッとする間はなかったです。デビュー戦ということで記者会見もあったんですが、血が出て真っ赤になった口を押さえながら、ボロボロ涙がこぼれて。そのあと、今は男子の日本代表のドクターをされている荒木大輔先生に車で病院まで連れていってもらい、本当に緊急だったので軽く手当てだけしてもらいました。すごい1日でしたね。
【いいことと悪いことが詰まったセミファイナル】――当時、私は別会場での取材だったのですが、別のスタッフから「宮下がデビューしたんですけど、前歯が折れて血まみれなんです」と連絡がきて困惑した記憶があります(笑)。それに続く、3つ目の印象的な試合は?
宮下:3つ目は、初めて岡山シーガルズで準優勝した、2013-14シーズンのセミファイナル(4チーム総当たりで上位2チームがファイナルラウンドに進出)の3試合ですね。あのシーズンはずっと上位をキープして、4強も早めに決められたんですが、ターゲットにしていた久光さんにはレギュラーラウンドで勝てませんでした。
セミファイナルは、久光さんに負けても2勝1敗で抜けて、決勝でまた久光さんとやって倒すというプランがあったのに、私が2戦目のトヨタ車体クインシーズ(現クインシーズ刈谷)さんとの試合を"壊して"しまった。リードしていた展開から、私のサーブミスからひっくり返されて負けてしまったんです。
それで1勝1敗になり、翌日の久光戦に勝たなければ決勝に行けないという状況になってしまって......。久光さんは、こちらがどれだけいいプレーしても(新鍋)理沙さんを中心に崩れなかったし、最後はエースの(長岡)望悠さんが決める。レギュラーラウンドでは勝てなかったし、「セミファイナルは私のせいで終わったな」って思ってたところで、先輩たちが「明日はどうせ負けるんだから、もうダメならダメで、自分たちがやるべきことをやって負けよう!」と慰めてくれたんです。
――そこで気持ちを切り替えたんですね。
宮下:先輩たちは本当に「どうせ負ける」と思っていたわけではなかったと思いますし、そう声をかけたら、みんながいい意味で開き直ってくれるかもしれないという狙いもあったかもしれません。私はその言葉を"どストレート"に受け取りました。「どうせ負けるなら、やりきって終わったほうがスッキリする」と胸に刺さって、「よし、勝たなきゃだめだと思うと絶対に硬くなるから、いい感じで負けよう」みたいな感じで開き直りました(笑)。
結果的に3―0で勝てたんですが、すべての選手が最初から最後まですごい集中力を保っていて、ボールがノータッチではコートに落ちないぐらいでした。久光さんがどれだけ攻めてきても、ブロックやレシーブに引っ掛けてつないでいきました。
当時の岡山はミドルの山口舞さんを軸にディフェンスからリズムを作って、相手が嫌になってミスが出る、というスタイルだったんですが、それをそのまんま出せた試合でした。私のなかでは「やりきった」という思いがあって、試合が終わっても勝ったのか負けたのかわからないような放心状態でした。2週間後に優勝決定戦があるのを忘れるくらい、"やりきった感"がありました。
――確かに、「岡山はあそこで気力を出し尽くしちゃったかな」と見えました。
宮下:決勝の久光戦は負けてしまったんですが、私がトヨタ車体戦でサーブミスさえしなければ、決勝でいい試合ができて勝つことができたかもしれない。いいことと悪いことが、ぎゅっと詰め込まれたセミファイナルだったので、すごく印象に残っています。
【自らを育ててくれた人たち】――続いては、「人生を変えた人」を教えてください。やはり、中学のバレー部の監督でもあった、岡山の河本昭義監督でしょうか。
宮下:監督は一番ですけど、すでにいろんなところで話してるので、今さら挙げても面白くないですよね(笑)。大事な人はいっぱいいるんですが、中学の時のコーチであり、シーガルズのマネージャーでもある平田真澄さんもそうです。中学時代は寮生活で、平田さんも一緒に住んでいたので、私たちのちょっとした変化もすごく気づいてくれた。親元を離れて、「寂しいな」ってなっている時も、いろいろ気を遣ってくれました。
シーガルズの選手が(通っていた高校があった)大阪に来た時には、「遥のこと、元気づけてあげてくれへん?」と言ってくれて、寮に選手が2、3人来てくれたこともありました。ただ、バレーボールのこととなるとすごく厳しかったですね。
――指導者としては、厳しさも必要ですね。
宮下:私たちが成長するために言わなきゃいけないキツいことも、本当は嫌だったと思いますけど、ズバズバ言ってくれました。当時は、「平田コーチ、今日は練習に来ないでほしいな」と思うぐらい怖くて。でも、私が中学生でVリーグデビューを果たしり日本代表に召集されたりして、周りが「遥ちゃん、すごい」ってなっても、コーチは変わらずに、ずっと厳しくいてくれた。「舞い上がるな」「天狗になるな」という意味も込めて、「遥はこうじゃなきゃダメだ」と言ってくれました。私がダメになりそうな時を、支えてくれた方です。
インタビュー中、笑顔でダブルピースphoto by 中西美雁
――最後に、あらためてバレーボール人生を振り返っていただけますか?
宮下:私はバレーボールを中心に人生を送ってきたので、バレーボールをしていなかったら、早いタイミングでやめて違う道に行っていたら......と思ったこともあります。30歳になる目前まで駆け抜けてきて、バレーボールを通じて出会えた人たちが本当にすばらしすぎました。
もしバレーボールをしてない自分と比べたら、競技をしている人生で出会った人たちとの時間のほうが絶対に豊かだったはずです。バレーボールという枠を超えた、心のつながりもあったと思っています。それぞれの出会いにレベルなんてものはないけど、本当にいろんな人との出会いが、その時その時の私を育ててくれました。「出会いに感謝」。このひと言に尽きるバレーボール人生だったと思います。
【プロフィール】
■宮下 遥(みやした・はるか)
1994年9月1日生まれ、三重県出身。177cm。セッター。中学3年生だった2009年に岡山シーガルズに選手登録され、同年11月にⅤリーグ史上最年少出場記録となる15歳2カ月でデビュー。翌年3月には日本代表の登録メンバーに選ばれ、2016年のリオ五輪では正セッターを務めた。岡山シーガルズひと筋で15年プレーし、2024年4月に現役引退を発表した。
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