連載怪物・江川卓伝〜大矢明彦が解説する脅威の投球メカニズム(後編)
前編:「大矢明彦が明かす江川卓の投球フォームの秘密」はこちら>>
1967年にドラフト7位で駒澤大からヤクルトアトムズに入団した大矢明彦は、ルーキーイヤーの5月末からマスクを被り、レギュラーの座をつかんだ。ちょうどその時期は巨人のV9後期に差しかかる頃で、ジャイアンツは王貞治、長嶋茂雄の"ON"を中心に戦力が整っていた。その一方でヤクルトは、ピークを過ぎた小粒なベテラン陣が多く、当然太刀打ちできなかった。
70年代、ヤクルトの正捕手として球団初の日本一に貢献した大矢明彦(写真左)と広岡達朗監督photo by Sankei Visual
【真っすぐとカーブだけで勝負】「入団当時の巨人のエースは堀内恒夫。ストレートは暴れる感じで、抜群にコントロールがいいわけではなかった。ただ堀内はカーブがあったから、ストレートが生きた投手でしたね。堀内は年齢が一緒だから、高校(早稲田実業)の時に試合をやったことがあったんですよ。日曜日にダブルヘッダーを組み、主力チームが午後からの試合だったため、午前中は控え選手中心でやったんですけど、その1試合目に甲府工業とやって、堀内に完封された。午後からの2試合目は銚子商業とやって、エースの木樽正明に完封負け。1日に2つの完封負けです。銚子商業はともかく、甲府工業にこんないいピッチャーがいたのかと......。
堀内はカーブがあるからストレートが生きる投手。逆に江川は、真っすぐが速いからカーブが生きる。あれだけストレートが速いと、追い込まれるまではカーブが来ても手を出せないですもんね。ピッチングの基本は、やっぱり真っすぐです。今のピッチャーは変化球をベースに真っすぐを投げている感じがしますね」
今の野球は、変化球が多種多様になった。高校生でも器用にいくつもの変化球を持ち球にしている。大矢は、変化球が多いことが悪いと言っているのではない。ただ、変化球に頼りすぎるピッチングになることを危惧しているのだ。
その点でいうと、江川は真っすぐとカーブしかない。それでプロ9年間で通算135勝を挙げたのは、驚異というしかない。その江川と同様、真っすぐとカーブだけで一時代を築いた男がいる。
江夏豊(元阪神ほか)だ。大矢が回想する。
「受けていて速かったのは江夏だね。左ピッチャーだと、どうしても右打者のインローに食い込んでくるストレートのイメージが強いんだけど、江夏は右打者のアウトローの真っすぐがすごかった。あのコースに、あの速さで来たら、とてもじゃないが打てない。とにかくアウトローの真っすぐがすごいなって。コントロールもそうだけど、低いと思って見送ったボールがストライクだから。球の速さでいうと、低めは江夏、高めは江川っていう感じですね」
江夏の生命線は、右打者のアウトコース低め。プレートの一塁側を踏み、アウトコース低めに投げ込む。インコースはひとつ間違えれば長打を打たれる可能性はある。ならばと、安全かつ手が届きにくいアウトローに活路を見出したのだ。
「江夏も江川も、力感のないゆったりしたフォームから糸を引くようなボールを投げてくる。マツ(松岡弘)なんて目一杯のフォームだから、イメージできる速さなんですよね。それに江川は投げる時に、手のひらでバーンとボールを叩くことでスピンを効かせている。だからボールが浮き上がってくるように見えるんです」
イメージ的にはボールを切るのではなく、手のひらで滑らせて押し出すような形。だからスピン量が多くなり、江川独特のスピードとキレが生まれるのだ。
【もうちょっと泥臭かったら...】「打席で一番速いと感じたのは、中日の小松辰雄です。豪速球というか、ズドーンと重いストレートで、バットに当たったら折れるんじゃなくて、割れちゃうみたいな感じがありました。あと、ロッテの村田兆治も速かったですよ。速かったんだけど、どうしてもフォークのイメージが強いですよね。78年の日米野球でバッテリーを組んだのですが、『ノーサインでやらせてくれ』と言われて、『いいよ』って返した。村田のフォークは揺れながら落ちて、どっちに来るかわからないんです。やっぱり怖かったですね」
ヤクルトでは、サウスポーの安田猛とノーサインでやっていたため、村田とバッテリーを組んだ時もさほど苦にはならなかった。ただ、フォークの揺れ幅だけは四苦八苦したという。
そして江川については、このように語った。
「いい時の江川は高めで勝負し、カーブはカウント球。何度も言いますけど、高めが速いからバッターの意識は高めのストレートになる。そこにカーブが来ると、どうしてもタイミングが合わない。100%カーブを狙っていれば合うケースも出てくるだろうけど、打者心理としてはストレートに振り遅れたくないと思ってしまう。とにかく江川の高めの真っすぐっていうのは、とんでもなく威力がありました」
数々の名投手を見てきた大矢でも、江川の高めのストレートは別格だったという。ただひとつ、大矢は江川に対して心残りなことがある。
「江川がもうちょっと泥臭かったらよかったかなと思いますね。割とマイペースで、それはピッチャーにとって必要なことかもしれないけど......。巨人に入団した経緯が経緯だっただけに、マイナスイメージから出発しなきゃいけないところがあった。それが江川のなかでは、かなりプレッシャーになったんじゃないかな。もう少し泥臭さがあれば、共感を呼べたのかなって......」
江川は常に淡々と野球をやっているイメージがあった。性格的な部分もあったのかもしれないが、入団時の騒動によって必要以上に結果を求められた。プロである以上、結果は大事なことだが、それ以外にもファンサービスやメディア対応などやるべきことがある。そのことを江川は知っていたが、あえて避けていたのだろう。
(文中敬称略)
江川卓(えがわ・すぐる)
/1955年5月25日、福島県生まれ。作新学院1年時に栃木大会で完全試合を達成。3年時の73年には春夏連続甲子園出場を果たす。この年のドラフトで阪急から1位指名されるも、法政大に進学。大学では東京六大学歴代2位の通算47勝をマーク。77年のドラフトでクラウンから1位指名されるも拒否し、南カリフォルニア大に留学。78年、「空白の1日」をついて巨人と契約する"江川騒動"が勃発。最終的に、同年のドラフトで江川を1位指名した阪神と巨人・小林繁とのトレードを成立させ巨人に入団。プロ入り後は最多勝2回(80年、81年)、最優秀防御率1回(81年)、MVP1回(81年)など巨人のエースとして活躍。87年の現役引退後は解説者として長きにわたり活躍している
【関連記事】
高橋大輔、浅田真央、宇野昌磨、荒川静香...「フレンズ オン アイス2024」フォトギャラリー
江川卓はなぜプロ野球で絶滅危惧種となった「ヒールアップ」で投げていたのか 大矢明彦が明かす投球フォームの秘密
島田麻央、上薗恋奈、高橋大輔...フィギュアスケート全日本ジュニア合宿フォトギャラリー
江川卓と桑田真澄──角盈男が一時代を築いた巨人のエースを比較 「ふたりに共通していたのは...」
ヒロド歩美キャスターが『熱闘甲子園』取材の裏側を語る・インタビューカット集