9月25日(水) 11:00
「伊藤沙莉さんはじめ役者さん、スタッフさん、尾野真千子さんの語り、主題歌・音楽とすべてに恵まれて、最後まで楽しく脚本を書くことができました」
日本初の女性弁護士、のちに裁判官も務めた三淵嘉子さんをモデルに、伊藤沙莉(30)演じる主人公・佐田(猪爪)寅子の半生を描いたNHK連続テレビ小説『虎に翼』が9月27日に最終回を迎える。
心に芽生えた違和感や疑問を、“なきこと”にせずに「はて?」と呟き物申す寅子に共感する視聴者も多く、脚本家の吉田恵里香さん(36)が紡ぐ物語は「朝ドラ史上に残る名作」との呼び声も高い。
「三淵さんは、人に愛される力があるからこそ、意志の強さを表に出せたのだと感じました。寅子は、頭がよくて気が強くて、毒を吐きながらも、ひたむきでおちゃめでちょっと抜けていて愛らしい。『はて?』は、寅子が世の中の不条理や不平等のテーマについて『対話』する導入の一言になればいいなと思ったんです」
吉田さんは、寅子を演じた伊藤に絶大な信頼を寄せていた。
「現場でもいつも『楽しいです!』とニコニコ笑ってらして。話をしていると私が元気をもらいます。立っているだけで寅子の感情が見えてくるし、喜怒哀楽の表情筋も素晴らしく、伊藤さんだからこそ、寅子が、視聴者のみなさんに、嫌われなかったのだと思います」
本作では、近代の女性が置かれていた社会進出の苦難、仕事と育児の両立の厳しさが描かれた。夫婦別姓の事実婚など寅子の歩んだ軌跡とともに、法曹界に身を置く検事・弁護士から見た朝鮮人差別、同性愛への偏見、そして原爆裁判と、社会問題も取り上げ続けた。
「40歳までに朝ドラを書く」ことが人生の目標の一つだった吉田さんは脚本家・作家、そして現在、4歳となる息子さんの母親でもある。
「声を上げることの大事さを伝えたいと、これまでも“物言うかわいげのない人”を描いてきました。気が強くて、わきまえずに声も上げていい。声を上げづらいマイノリティの人たちに代わり、エンターテインメントが、声を上げられればと思っているんです」
今回の『虎に翼』でも登場人物一人一人に背景や、感情を出す見せ場となる物語がつづられてきた。
「脚光が当たらない人も含め“透明な存在な人”は、この世には誰もいません。誰も取りこぼしたくない思いを持っていたいんです」
と、信条を持つ脚本家の原点と、母として仕事をする女性としての吉田さんの顔に迫った─―。
■中学3年生のスピーチコンテストで感じた“仕方ない”空気感が嫌だった
’87年11月に神奈川県で誕生。自営業の父、専業主婦を経て英会話学校を営む母、10歳上の兄の4人家族だった。1歳から母が本の読み聞かせをしてくれたことが、物語を作る糧になっているという。
「幼稚園のときには、自分で絵を描き、パンダとコアラの夫婦の物語のミニ絵本を作っていました。小学生から、物語をつくる仕事をしたいと思っていたんです」
「家族は幸せであってほしい」と願っていたが、それは“当然”ではないと気づく出来事が起こる。
「近所の家のお父さんが失踪し、そのお子さんが児童養護施設に入所。私の住む街にはふるさと里親という制度があり、月に何回かわが家でも預かることになったんです。漠然と“いつかはお父さんが戻ってくるだろう”と思っていたけれど、戻らなかった。家族というあたり前だと思っていた存在は、平和だから存在するもので、混沌とした社会の中では、わずかなところにしか存在しないのだと、強烈に気づきました」
吉田さんの中の「はて?」が生まれた瞬間なのかもしれない。『虎に翼』では寅子の母・はる(石田ゆり子)や、親友で義姉の花江(森田望智)は、専業主婦として一家の屋台骨を支え、意見をきちんと申す女性として描かれた。
「花江はもう一人の主人公だと思って書きました。寅子が帰宅すると必ずご飯がある“家庭のプロ”。働きたい気持ちはなくても、家族を支えることに幸せを感じている女性もいます。でも人を支える側は、世の中の二番手扱いをされていることに腹が立ちます」
仕事をするのも、家を守るのも大事。お互いが支え合う大切さは、母から受け継いだのかもしれない。
「物語をつくる仕事」を目指し、芸術学部のある大学の付属の中高一貫校へと進学。順風満帆な学生時代を過ごすが……。
「中学3年生のとき、英語のスピーチコンテストの代表に選ばれ、私は決勝に出る予定でしたが、チームが予選で負けたため、スピーチせずに済むはずでした。けれど、同じチームの男子が、私の知らない間に勝手に出場順を変えていて。先生までもそれを認めて『早く出て!』と。準備もしていないのに、スピーチせざるをえなくなったことに腹が立ち、許せませんでした。それは違うと思っているのに、“仕方がない”というような空気感、その同調圧力が嫌で。事情を知らない周りからは、“怖い人”認定されてしまうし……」
相手が目上であろうと、許せないものは許せない。吉田さんは、群れること、こびることが大嫌いな自分に気づいたという。中高では、生徒会に入り、学園祭などの運営を担ったが、高校2年のときのこと─―。
「『ドラえもん』のジャイアンみたいなウチの父から『生徒会の会長選挙に出ろ』と言われて。“副会長ならいいけど会長は嫌”と答えると、『会長選挙に出ないなら、受験も近いし生徒会はやめろ』と。交換条件のように立候補しました。
結局、負けたのですが、父からは『負けることを経験することは人生の糧になる。どうせ受からないと思った』と伝えられて。自分が思うのはいいけれど、勝手に人から“人生経験になる”とか言われるのは嫌ですよね。これは今もムカついています!(笑)」
宇多田ヒカルの『誰かの願いが叶うころ』の歌詞に心揺さぶられたのもこのころのことだった。
「“誰かが願いを叶えるときには、泣いている子もいる”といった歌詞でした。100人いたら100人全員が幸せになることはない。そこには不幸せになる人が10人はいるという“真理”に気づいたのです」
90人の幸せを100人の幸せにして描くのは違う。確かに存在する少数10人を決していないものにはしない!と心に決めた。
「100人中の10人の個について、『私は、あなたを透明な存在にしないし、あなたに幸せになってほしいと願っている』と、常に思いを込めて書いているんです」
その後、日本大学藝術学部文芸学科へ進学。大学1年のとき、脚本家の道を開く出会いがあった。知り合いの劇団を手伝いに行ったのをきっかけに『とと姉ちゃん』(’16年)の脚本家の西田征史さんを中心にした作家・脚本家の事務所へ出入りすることになった。
「脚本のお手伝いをさせてもらうことになり、すぐにラジオドラマのコンペに通り脚本を書きました」
そして20代でドラマ、映画、アニメ、小説と“職業としての作家”を実現していった。
「私は1本だけの作品に時間を費やして集中するよりも、同時にいくつかの作品に向き合うほうが、作品との距離感がうまくつかめます。また映画は書いても作品に成就しないこともあります。常に仕事をこなしたくさんの作品を書くのは、本当に書きたいものを書くための種まきでもありました」
小説『脳漿炸裂ガール』(’13年)シリーズは、累計発行部数70万部を突破。仕事は順調だが、吉田さんの中ではある変化も起きていた。
「私は嘘をついたり、とりつくろうのが苦手です。口が小さいせいか『機嫌悪いの?』と、怒った顔に見えるといわれる。それまでは、仕事するならニコニコしてなきゃと頑張って、“スンッ”となったりもしてきましたが、20代半ばで、無理はやめました(笑)」
■子宮口が広がるギリギリまで、原稿の赤字入れやメールチェックの仕事を…
そして30代、「仕事をさらに頑張って一段階上を目指したい」と志す吉田さんの環境は激変していく。
「近くに暮らしていた祖母が92歳で亡くなりました。80代から認知症が進んできていて、希望の施設を探すための一時施設にいるとき、安らかに天寿を全うしました。コロナが世界に蔓延する直前で、フランスに暮らす叔母や従妹も、葬儀に参列できました」
すでに吉田さんは結婚を決めていたが、祖母の死とコロナ禍で両家の顔合わせや入籍が延期に─―。’20年1月に入籍。だがその前年に新たな命を授かったことが判明。
「事務所からは『がっつり仕事は無理だね』と言われて。私も“今が一段階上に行ける頑張りどきに、出産して仕事が減ってしまう”という不安がありました」
劇中の寅子は激務のなか、妊娠が判明し弁護士の道を断念することになるが、吉田さんは……。
「母が『せっかくここまで来たんだから。全力でサポートするから、今までどおりの仕事をしなさい』と、背中を押してくれたんです。母に支えられて今があります」
出産も仕事もと決意した直後、コロナ禍が始まった。
「私の仕事もどうなるか……。妊娠中なので会議がリモートなのは助かるけれど、それがずっと許されるのかと不安になりました」
食べづわりで体重が27キロ増加するなか、執筆していたのが「チェリまほ」と呼ばれ話題となる『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』(’20年、テレビ東京系)だ。
「臨月を迎え、夜10時ごろ、『ブラックシンデレラ』のリモートの打合わせ中に破水したんです。病院に行き、4人部屋のベッドのカーテンを閉め子宮口が広がるギリギリまで、原稿の赤字入れやメールチェックの仕事をしていました」
朝方痛みがひどくなり分娩室へ。
「朝7時ごろに息子が誕生しました。コロナ禍で面会はできません。生まれたての息子の写真を家族に撮ってほしかったけれど頼めない。だから看護師さんが撮ってくれました。授乳も徹夜仕事に慣れていたので苦ではなかった。息子もすごくお利口で生後すぐ3?4時間寝てくれたのも助かりました」
出産したその日の夜も、吉田さんはメールチェックをしたり、出産後連絡が遅くなると連絡を入れたりと、一人で仕事をしていた。
「“出産ハイ”もありました。面会ができないので、1週間は一人穏やかに過ごせました(苦笑)。周りから『出産後だから仕事は無理ですよね?』と気を使われるのが嫌なので、なるべく出産したことは言わないでおこうと決めて。『産みましたけど、なにか?』くらいの気持ちで、何事もなく仕事に復帰したかったんです」
帰宅後、実際はつらい日々が続いた。母に赤ちゃんの面倒を見てもらいパソコンに向かうが──。
「産後2カ月ほどは、仕事をしたくても、頭が回りません。ずっとパソコンの前で、一文字も書けない時期が続きました」
自分の仕事のために費やしてきた時間。産後の体調、育児のための時間、作品は書きたい。でも書けない……焦りは募るばかり。
「とにかく手が回りません。脚本家として読書、観劇とインプットしたいけれど、育児と仕事で時間はない。それでも仕事はしたい!私の場合は“仕事をセーブして、自分が思い描くキャリアを積めていなければ、きっと息子のせいにしてしまうだろう”と思いました。だから、育児と仕事に時間を最大限に使い、そのほかは諦める潔さが生まれました」
もちろん家族のサポートも大きな助けとなった。
「夫はもちろん、母と兄夫婦が助けてくれています。ピンチのときは保育園のお迎え、食事も頼っています」
寅子の娘・優未を、花江とその息子たちが面倒を見ていた場面とも重なって見える。
「母に頼りっきりで、今日は息子のために何もできなかったと思うと正直、落ち込んだりします。でも、母は私の活躍を喜び『(娘として)誇りに思っているよ』と声をかけてくれて。本当にありがたい。恵まれていると思います」
(取材・文:川村一代)
【後編】「“ダメなものはダメ”と言わなければ」『虎に翼』脚本家・吉田恵里香さん朝ドラで社会問題描くことの賛否に明かした思い へ続く