セーブ制度導入50年〜プロ野球ブルペン史
与田剛が語るプロ1年目でセーブ王獲得の真実(後編)
1990年の開幕戦まで、残り10日あまりとなった3月末。中日のドラフト1位ルーキー与田剛は、監督の星野仙一から「抑え」に指名された。前年まで抑えを務めていた郭源治がケガで出遅れ、代役の最有力候補として与田の名が挙がった。驚くルーキーに星野は、自身がセ・リーグの初代セーブ王(74年)だと伝え、説得したという。当時の状況を与田に聞く。
プロ1年目に31セーブを挙げ最優秀救援投手のタイトルを獲得した与田剛photo by Kyodo News
【新人だからこそできた守護神】「星野さんからは、抑え投手としての快感を延々とお話しいただきました。指名はまったく想定外でしたけど、僕は元来、『人間万事塞翁が馬』で生きてきたので、変えられない現実は受け入れようと」
与田は早速、郭に電話を入れ、抑えとしての調整法などを聞いた。社会人では先発で投げてきたが、全日本で出場した国際大会ではリリーフでも登板。待機の難しさは経験していた。それにしても当時、新人で開幕から抑えを務めるとは前例がない。星野からの直々の指令でその気になったということなのか。
「経験値がないと、その気になれるんでしょうね。経験値のある方は、たぶん自他ともに認めないといけないポジションという認識でしょう、4番とエースと抑えというのは。その点、経験値が何もない僕には、抑えがどれだけ信頼されないといけないのか、おぼろげにしかわからない。だから、若さと生意気さが後押ししてくれたんだと思います」
4月7日、ナゴヤ球場での横浜大洋(現・DeNA)との開幕戦。5対5の同点で迎えた延長11回、与田は無死一、三塁でプロ初登板となった。いきなりピンチの場面だったが、最速152キロの真っすぐを生かして投ゴロ、三振、三振。衝撃的なデビューを果たした(試合は降雨コールドで引き分け)。
ただ同10日、神宮球場でのヤクルト戦では7対6の9回裏に登板。自身初のセーブシチュエーションだったが、逆転サヨナラ3ランを打たれ、プロ初セーブは2日後のヤクルト戦。6対4と2点リードの7回途中から登板し、9回にソロ本塁打を浴びるも後続は断って挙げた。快投、失敗、辛勝と、短期間でひととおり抑えならではの経験を済ませたとも言えそうだ。
「初登板の時から、抑えとしてどうこうとは思ってなくて。『オレは子どもの時からこのマウンドを目指してやってきた、だから逃げちゃいけない』って、すごく思っていました。とくに1年目は、逃げ出したくなるような恐怖、不安と闘う日々だったわけです」
【何度も救われた落合博満の言葉】実績も経験もない新人の抑えを盛り立てたのは、まさにバックを守る野手たちだった。ピンチを迎え、緊張してガチガチになっている時、遊撃の立浪和義から「大丈夫っすよ、安心してください、守ってますから」と声がかかる。それだけでフッと気持ちが落ち着いた。
「たとえば、ポジショニングで『与田さん、ちょっとこっち寄ってますからね』とか言われたこともあります。だからといって、そこに打たせるためにインコースに投げるようなコントロールは簡単にはできませんよ。でも、野手がそういう気持ちでそこにいると認識されると、マウンドで安心できるんです」
打者の心理と意識、さらにはバッティング自体も教わったという落合博満からは、野球とは直接関係のない言葉がよく飛んできた。一塁からフーッと寄ってきて、さり気なく、ポロポロっと声がかかる。
「いつまで投げてんだ。もう食事の時間過ぎてるから早く終わらせろ」
「ああ、すいません、早く終わらせます」
ひとつ間違えば抑え失敗という状況でも、クスッと笑いながら与田は答えていた。マウンド上で右往左往している時、野球の話をされたところで何も考えられない。それだけに、落合の言葉はありがたかった。
当時の抑えはまだ1イニング限定ではなく、2イニング前後を投げるのが普通。そのなかで結果を出し続けた与田は、6月までに2勝18セーブを挙げ、投手部門のファン投票1位でオールスターに初選出。パ・リーグでは同じく新人の野茂英雄もファン投票1位で初選出され、福岡・平和台球場で迎えたオールスター第2戦。与田と野茂が先発で投げ合うことになった。
「僕は最初にキヨ(清原和博/元西武ほか)にホームランを打たれて、ベンチに帰ったら落合さんが『おまえ、賞、何ももらえねえな』って笑うんです。で、『よし、オレが野茂から打って、あいつも賞をもらえないようにしてやる』って言って、ホームランを打ってくれて。『落合さん、じゃあ今度シーズン中にお願いします』って言ったら笑ってましたけど、あの方には本当によく助けられました」
【とにかく抑えは勝てばいい】何度もバックに救われた与田だが、抑え切れない時もある。1年目は救援で4敗を喫し、自身に負けがつかなくとも抑えに失敗した試合はあった。切り替えはどうしていたのか。
「勝ち投手の権利を消したピッチャーには謝りに行っていました。それは自分のためでもあって、相手の顔を見て謝って、思いを伝えることで切り替わる、けじめがつくんです。先輩にも後輩にも、不愉快な顔をされたことは一度もありませんよ。いつも助けてくれているからと。
当然、チームの勝利をなくした責任も背負っていました。勝敗の数字はいつも見ていて、このゲームに勝っておけば首位と同率になっていたのか......とか。ただ、謝る相手はいないので、星野さんはじめチーム全員の顔を見ていました。とくに負けた翌日はよく見ていましたね」
新人でも抑えを務める以上、敗戦の責任を負う。それが信頼関係につながり、切り替えやすいと与田は考えていた。
一方で熱く燃える男でもあり、今では「最悪。恥ずかしい」と苦笑するが、失敗するとロッカーの壁にスパイクを投げつけて荒れる一面もあった。"闘将"星野はそんな姿も見たうえで「すごいヤツだ。2イニングぐらいなら日本一の投手」と与田を絶賛している。
「1年目で抑えをさせてもらって、『気が強い』とか『心臓に毛が生えている』とか言われましたけど、僕自身、すごく怖がりだと思っています。怖がりは、それを払拭するために準備はするんですよ。どうやったら怖さが消えるかって考えて」
準備を何より大事にした与田は、4勝を挙げてリーグ最多の31セーブをマーク。最優秀救援投手賞を受賞し、新人王にも選出された。8月には当時の日本人最速157キロを出してスピードでも注目されたが、2年目はケガの影響で低迷。92年に23セーブを挙げるも、翌年以降は活躍できず、96年にロッテ、98年から日本ハム、2000年は阪神へと移籍して現役を引退した。
「11年間もプロ野球界にお世話になって感謝していますが、僕は1年目と3年目以外、ケガでまともなシーズンを送れなかったわけです。だから、何でこういうケガをするのか、とか、どういうふうに過ごしていったらいいのか。トレーニング方法も含めて、楽天のコーチの時に選手たちに伝えさせてもらいました」
16年から3年間、楽天の投手コーチを務めた与田は、19年から古巣・中日の監督に就任。投手力と守備力の再整備に着手し、20年にはチームを8年ぶりのAクラスとなる3位に引き上げた。先発陣は大野雄大が引っ張り、抑えのマルティネスが中心のリリーフ陣では、祖父江大輔、福敬登がともに最優秀中継ぎ投手賞を受賞。勝ちバターンの確立がチーム浮上に直結していた。
「主役は選手ですから。勝ちバターンも僕の采配じゃなくて、ピッチャーの頑張りと踏ん張りで確立したわけで。ただ、僕がコーチ、監督の時に抑え投手に言っていたのは『とにかく抑えは勝てばいい』ということ。リードした場面で出ていった時は、満塁にしようが、フォアボールを出そうが、『何だあいつ今日、調子悪いな』って言われようが、勝てばいい。
楽天の時は松井裕樹(現・パドレス)にもよく言ってましたよ。『まっちゃん、あと2つフォアボール出しても満塁じゃん。オッケーオッケー。その代わり全部抑えておいで』『マジすか〜』『マジだよ』って。しっかり準備して、次で打ち取る自信があるなら、歩かせていい。2点差あれば、ホームラン1本はいい。あれもダメ、これもダメって言ってたら何もできませんからね」
(文中敬称略)
与田剛(よだ・つよし)
/1965年12月4日、千葉県君津市出身。木更津総合高から亜細亜大、NTT東京を経て、89年のドラフトで中日から1位指名を受け入団。1年目から150キロを超える剛速球を武器に31セーブを挙げ、新人王と最優秀救援投手賞に輝く。96年6月にトレードでロッテに移籍し、直後にメジャーリーグ2Aのメンフィスチックスに野球留学。97年オフにロッテを自由契約となり、日本ハムにテスト入団。99年10月、1620日ぶりに一軍のマウンドに立ったが、オフに自由契約。2000年、野村克也監督のもと阪神にテスト入団するも、同年秋に現役を引退。引退後は解説者として活躍する傍ら、09年、13年はWBC日本代表コーチを務めた。16年に楽天の一軍投手コーチに就任し、19年から3年間、中日の監督を務めた
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