ヤクルトナインが語った青木宣親(前編)
今から6年前の2018年2月7日、メジャーで6年間プレーしていた青木宣親が、ヤクルトの沖縄・浦添キャンプに合流した。この日を境に、多くの選手から「ノリさん(青木)に動画を見てもらおう」「青木さんに聞いてみます」「ノリさんに教えてもらいました」という言葉を聞くことになるのだった。
小川淳司GMは「青木は別人になって帰ってきましたよね」と、当時を振り返った。
「キャンプでの最初のあいさつで『年上ですけど、いじってください』と言ったんです。その数日後だったかな、みんなと違うユニフォームでグラウンドに出てきて、いじられていた。選手たちとフレンドリーに接している光景を見て、『あぁ、よかったなぁ』と。最初にヤクルトにいた時は、個人の成績を優先にしているように感じられたのですが、メジャーでいろいろな経験をして、チーム単位で考えられるようになったのかなと。それは年齢的なものもあるだろうし、変わったというのは必然だったかもしれないですね」
そして小川GMは「チームにとって、青木の存在は非常に大きかったですね」と話した。
「若い選手のスキルアップに対しての考え方とかトレーニング法など、いろいろなところで影響を与えてくれたし、その時のチーム状況に合わせて『今はこうしようぜ』とか、盛り上げ役を率先してやってくれました」
今シーズン限りで引退するヤクルト・青木宣親photo by Sankei Visual
【青木さんからレギュラーを奪えなかった】青木は9月13日に引退会見を行なった。その翌日、二軍の戸田球場では青木の背中を追い続けたふたりの左打ち外野手が一軍登録を目指していた。
山崎晃大朗は「青木さんのヤクルト復帰が決まった日のことは、今でも覚えています」と言って続けた。
「2018年の1月30日ですよね。このニュースを知ってから、キャンプ地に向かうために空港に行ったんです。僕はその前年、59試合に出させていただいて、プロ3年目となるその年は『もっと頑張ろう』と強い気持ちを持っていたところでした。だから青木さんが加わることで、一緒にやれるうれしさと、突然大きな壁が現れたというふたつの気持ちがありました。坂口(智隆)さんが『青木さんが帰ってくるなぁ』という話をしたことも覚えています」
今日まで、山崎は野球に関するたくさんのことを青木から聞き、すべて試したという。
「グリップの位置だったり、タイミングの取り方だったり、走者一塁の時の考え方だったり......。21年のオフはずっとLINEをさせてもらって、自分のバッティング動画も送ってアドバイスをいただき、22年は118試合に出ることができました。『左手はこう出したほうがいい』や、『こういう感じで構えて、右手の意識はこうしたほうがいい』とか」
青木の引退を知った時は「青木さんからレギュラーを奪えなかったことが......」と、複雑な表情を見せた。
「なんて言うんですかね。おこがましいですけど、青木さんを目標として、そのなかで勝手にライバルと思っていたんですが、(ポジションを)奪えませんでした。今は悔しい気持ちと、寂しい気持ちです。これからもっともっとうまくなって、もっともっと成長した姿を見せられるようにやっていけたらと。引退試合までになんとか一軍に上がりたいですね」
【背番号23をつけたい】丸山和郁は「ノリさんの引退試合までに一軍に上がれるかな......」と言った。
「自主トレでお世話になった時から、ノリさんがユニフォームを脱ぐ日は、絶対に同じ場所でプレーしていたいと。その思いはかなり強いです」
今年3年目の丸山にとって、青木は子どもの頃からの憧れの選手だった。
「実際に目の当たりにした青木さんはストイックで、練習でも妥協をしないですし、24時間、野球のことを考えている方です。自分はあまり深く野球のことを考えたことがなかったのですが、青木さんに出会ったことで、たとえば1打席の結果をどう紐解いていくかとか、こういうトレーニングは野球につながっていくとか、そういう細かいところまで教えていただきました。今はその姿勢に少しでも近づきたいと思ってやっています」
今年春には「まずは0から1をつくることが大事だよ」という金言を授かった。
「1というのは土台で、それがないと2にも3にも進めないと理解しました。実際に今年、タイミングの取り方やバッティングポイントの土台づくりをする最中に打ち出すことができたのですが、まだ完全じゃなかったので状態が落ちた時に脆かったというか......。戻る場所が見つからず、迷子になってしまいました。ノリさんが言っていたのはこういうことなのかなと。何で打てていたのか、どういう動きをしていたのか。そういうことはちゃんとメモしてあるので、今はそれを整理して、しっかりした土台をつくっているところです」
丸山は「自分が青木さんの次に背番号23をつけたい」という目標があると語った。
「その思いは、入団した時からずっと変わらないです。そのためにもっともっと頑張って、青木さんやファンや周りの方たちに認められる成績を残さないといけない。そしていつかタイトルを獲り、チームを引っ張っていける選手になった時に、青木さんに『ここまでできるようになりました』と言えるようになりたいです」
丸山は9月21日のファームでのDeNA戦(戸田)で2打席連続ホームランなど、一軍昇格に向けて必死のアピールを続けた。
【ファームでも若手にアドバイス】青木は引退会見で若手との距離感について、「自分から話しかけて、自分を知ってもらって、何でも聞けるような雰囲気づくりを心がけました」と話した。
実際、9月4日のファームでの日本ハム戦(鎌ヶ谷)で、その光景を目の当たりにした。青木は2年目の橋本星哉、新人の伊藤琉偉、高野颯太が練習前の準備をしているところに歩み寄り、緊張気味の3選手に身振り手振りでアドバイス。試合前練習では、伊藤のティーバッティングでトス役を務めた。
伊藤は「教えていただいたのは、タイミングの取り方や、足の体重移動です。わかりやすくて、いい感じでスイングスピードも上がってきました」と語る。
「青木さんは自分のバッティングをちょくちょく見てくれていたようで、声をかけていただきました。そのあと、戸田でバッティングを教えてもらって、鎌ヶ谷ではその確認で話をしに来てくださったんです。青木さんは雲の上の存在なので、最初は自分から話を聞きにいけなかったのですが、最近は自分から『今日はどうでしたか?』といけるようになりました(笑)」
人と話すのが苦手な伊藤にとっては、かなりの緊張だったことは容易に想像がつく。
「ヤクルトに入って一番の経験というか、レジェンドの方に教えてもらうことができた。ふつうの人にはできない経験ですし、これを絶対に生かしていきたいです」
【山崎晃大朗は自身も引退を決断】そして青木の引退試合が近づくなか、戸田から一軍を目指していた選手たちに大きな変化が訪れた。
丸山は「青木さんには『戻ってきました』と普通にあいさつして『頑張れよ』と言ってもらえました」と、今は一軍で元気なプレーを見せている。
「青木さんが引退する日には絶対に一緒にユニフォームを着ていたいと思っていて、二軍に落ちてからもこの1カ月、その思いでやってきました。引退試合では、できればグラウンドの上で一緒にプレーしたいですし、『ここまで成長できました』『まだまだもっと頑張ります』というのを表現したいです」
山崎は9月25日に自身の引退を決断。
「右ヒザの状態と、もともとメニエール病(めまいや吐き気が繰り返し起こる病気)に悩まされていて、それがちょくちょく起こるようになったのが理由です。自分のコンディションや体調という面で覚悟していた部分もあったので、球団とも話し合って決めました」
山崎は9月29日、戸田での二軍最終戦の最終打席にライトへ気持ちのいいホームランを放ち、10月3日の一軍最終戦(神宮)でファンに最後の別れを告げる。
後編につづく>>
青木宣親(あおき・のりちか)
/1982年1月5日、宮崎県生まれ。早稲田大学から2003年ドラフト4位でヤクルトに入団。最多安打、首位打者、盗塁王、最高出塁率、ゴールデングラブなど、数々のタイトルを獲得。「走・攻・守」三拍子揃った球界を代表する好打者に成長。またWBC、五輪など国際大会にも選出され、日本代表の勝利に大きく貢献。12年にMLBのブリュワーズと契約し、レギュラーを獲得。14年にロイヤルズ、15年にジャイアンツ、16年にマリナーズ、17年はアストロズに所属し、日米通算2000本安打を達成。シーズン途中にブルージェイズ、さらにメッツへ移籍。18年、ヤクルに復帰。 21年、日米通算2500安打を達成した
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