“小売日本一”だったダイエーが90年代に転落したワケ…「欲しいものは何も売っていない」

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“小売日本一”だったダイエーが90年代に転落したワケ…「欲しいものは何も売っていない」

10月5日(土) 8:53

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経済本や決算書を読み漁ることが趣味のマネーライター・山口伸です。『日刊SPA!』では「かゆい所に手が届く」ような企業分析記事を担当しています。さて、今回は株式会社ダイエーの業績について紹介したいと思います。

イオングループ傘下に入ってから約10年が経ったダイエーですが、かつては小売企業として日本一の座を維持し続け、バーガー店やコンビニ、レストラン事業など多角経営を行っていました。価格決定権をメーカーから小売企業に移す「価格破壊」で消費者の味方となり、産業の中でも下に見られていた小売事業の地位を高めました。しかし90年代後半から失速し、現在ではイオンの完全子会社になっています。トップの座に君臨し、そして凋落した理由をまとめました。

ドラッグストアから総合スーパーへ

ダイエーの創業者である中内功氏は1957年に前身となる大栄薬品工業を設立し、大阪・千林のドラッグストアとして創業しました。近隣に競合の薬局が多かったことから食品や日用品で差別化を図り、58年には神戸・三宮で総合スーパー(GMS)の原型となる店舗を出店しました。当時はメーカーの希望小売価格を守るのが一般的でしたが中内氏はこれを無視して安売りを強行し、消費者を味方につけました。

食品から家電まで何でもそろうGMSは便利な店舗として各地で受け入れられるようになります。1963年には福岡・天神に出店。翌64年には株式会社一徳を買収し、同社店舗を取得することで首都圏に進出し約20店舗の規模となりました。その後、70年に「ドムドム」をオープンし、バーガー事業にも参入しました。当初、中内氏はマクドナルドの誘致を狙っていましたが、交渉が決裂したことでドムドムの設立に踏み切ったようです。約90店舗を展開していた72年には東証一部に上場しました。

コンビニ、百貨店、球団と多角化を進める

1973年2月期は売上高3,052億円となり、百貨店・三越を抜いて小売企業で国内トップの座に着きました。その後も勢いを止めることなく出店を加速、75年にはアメリカからコンビニの「ローソン」を誘致し国内1号店を出店しました。ちなみにセブン-イレブンが日本に上陸したのは74年のことです。160店舗の規模となった1980年には売上高1兆円を達成。80年代からは百貨店事業も模索し、仏・プランタンの1号店を三宮に、4号店を銀座(プランタン銀座)に構えました。190店舗に迫ろうとしていた88年には、南海電鉄から球団を買収し、福岡ダイエーホークスが発足しました。

なお、成長期においてダイエーは「土地神話」に基づく地価の上昇に頼りながら出店を続けました。駅前や住宅街の土地を買って店舗を構え、その後の地価上昇をもとに銀行から借入を行い、新たな店舗を構えるというスタイルです。

バブル崩壊と震災で打撃を受ける

しかし、1990年代末の総量規制を発端とするバブル崩壊が地価の下落をもたらし、これ以降ダイエーの資金調達力は低下しました。そして1995年の阪神淡路大震災でダイエーは大打撃を受けることになります。地盤としていた神戸では7店舗中4店舗が全壊、コンビニを含めると100店舗が被災し、震災による直接的な被害は約500億円になりました。一方で、中内氏は被害の少ない店舗を営業させるなど、地域の復興に尽力しました。

ダイエー凋落についてはバブル崩壊と震災を主要因とする言説が一般的ですが、実はその間も規模は拡大しています。1994年には忠実屋やユニードダイエー、ダイハナなど関東・九州・沖縄地盤のGMSを買収し、店舗数は約220から約350に増えました。ダイエーの連結売上高は95年2月期にピークの3兆2,239億円を記録し、店舗数では98年に378店舗のピークを迎えました。

何でも売っているが、欲しいものは何も売っていない

案の定、90年代に行った無理な拡大が後の傷口を広げることになります。出店により店舗数・売上高は伸びていったものの、GMS1店舗あたりの既存店売上高は1993年以降、前年比で減少が続きました。ダイエーは安売りを強みとする一方、台頭する専門店と比較して質や品揃えでは劣っていたのです。

アパレル市場はそもそも1991年をピークに縮小しており、90年代はユニクロやしまむらの黎明期にあたります。家電では首都圏の駅前でラオックス、郊外部ではコジマが台頭していました。「ダイエーに行けば何でも売っているが、欲しいものは何も売っていない」と揶揄されるようになりました。

店舗縮小に踏み切ったのは1998年になってからです。しかし無理な拡大を続けた分、傷口は広がり、時すでに遅しといった対応でした。2001年に中内氏は業績悪化の責任を取って会長の座を退任し、同年にローソン事業も手放しました。02年2月期の連結決算は約2.5兆円の売上高に対し純損失は3,325億円にまで膨らみました。主要3行による1,700億円の債務放棄、04年に行ったソフトバンクへの球団売却も再生につながらず、その後、産業再生機構がダイエーを支援することに。

イオンの傘下で「ダイエー」の名前は残るが…

業界トップの座も2003年2月期にイオンに追い抜かされて2位に転落。その後、王者となったイオンが08年にダイエーの筆頭株主となり、13年には連結子会社となりました。15年にイオンはダイエーの全株を取得し完全子会社化しました。現在でも一部店舗で「ダイエー」の名前は残っていますが、多くはイオン・マックスバリュ・イオンフードスタイルなどの名称に変更しています。

質を求める消費者の流行を掴めずに無理な規模拡大で業績が悪化したダイエーですが、低層階に食品スーパー、上層階に衣類・家電というGMSを築き上げ、成長期において日本の消費者を支えました。功績が大きい分、現在の姿を見ると寂しくなってしまいます。

<TEXT/山口伸>

【山口伸】
経済・テクノロジー・不動産分野のライター。企業分析や都市開発の記事を執筆する。取得した資格は簿記、ファイナンシャルプランナー。趣味は経済関係の本や決算書を読むこと。Twitter:@shin_yamaguchi_

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