イランからクウェートに戻り、ペルシャ湾から強襲揚陸艦に乗って米西海岸まで帰る。揚陸艦の甲板上で食べたハンバーガー
米海軍に入隊したサイトウは海兵隊転属の命令を受け、米ミラマー海兵隊航空基地に配属された。サイトウは激化するイラク戦争の上空を飛ぶヘリに乗っていた。負傷者を後送する衛生兵・フライトメディックとして戦場の最前線と航空基地を往復する任務に就いているのだ。
「五体満足なときはまだマシですよ」とサイトウは話す。凄惨な状態の遺体もヘリに乗せて基地に戻すのが使命だ。サイトウがイラク戦争の生と死のはざまで見たリアルな光景、そして戦地からアメリカと日本に戻ったときの心中を語る。
【"米軍全クリ"に最も近づいた日本男児 サイトウ曹長の米軍を巡る冒険譚 〈第3回イラク戦争後編〉】
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■遺体を運ぶ任務「エンジェルフライト」
海兵隊員のサイトウ軍曹(当時)はイラク戦争の戦火の中にいた。イラク西部、アル・アサード航空基地では、前線の負傷兵を救出し基地に後送する任務が続いていた。
サイトウ軍曹はCH46中型ヘリで駆けつける衛生兵、フライトメディックとしてイラク上空を飛ぶ。
負傷するのは軍人だけではない。
「通訳のために現地の言葉が話せる人も米軍部隊と一緒に最前線に出ているんです。彼らが戦傷を負った場合もウチらが搬送します。
ただ、彼らは言うことを本当に聞かなかった。言葉は通じるのに、やりたい放題というか......。『静かにしろ』と言えば騒ぐし、『動くな』と言えば動き回る。彼らをコントロールするのはきつい仕事のひとつでした」
戦線で負傷した人をヘリで救出し、基地の診療所に届けるまで医療措置を行なう衛生兵としてイラク戦争に従軍したサイトウ。イラクには10ヵ月いた
イラクという場所の難しく込み入った事情がそうさせているのかもしれない。
「また、自分は関わっていないのですが、敵の捕虜を運ぶ任務に当たった部隊はかなり大変そうでした。十数人の手を縛り、目隠しして、膝立ちさせて運ぶんです」
しかし、それでもまだ心臓が動いているだけいい。
「『エンジェルフライト』という任務がありました。任務の内容は遺体を運ぶこと。戦死した米軍隊員はもちろん、イラク兵も同盟国軍の遺体も。
遺体はビニール製のボディバッグに入れて運ぶこともあったし、ステンレス製の箱に氷と一緒に入れて運ぶこともありました。暑い地域だから腐敗の進行が早いんです」
思い出しながら、サイトウ曹長は複雑な表情を浮かべる。
「五体満足なときはまだマシですよ。残ったのが片腕だけとか、片方の足だけってときもありました。内臓がグチャグチャとかね。どんな状態であれ基地に持って帰り、基地に常駐している牧師さんに弔ってもらいます」
遺体を回収する「エンジェルフライト」という任務はサイトウの精神をむしばんだ。写真は戦場を飛び回ったCH46中型ヘリ
米兵の遺体はすべて故国まで送られる。ひつぎの中に丁寧に入れられた状態で、だ。
「いろんな状態の人体をメディックは見ないといけない。だからでしょうね、いまだに毎朝午前3時に目が覚めるんです。PTSDです。不思議なことに、どの国のどのタイムゾーンにいても朝3時なんです。それでもなんとか寝ます。翌日の課業があるので」
戦場から五体満足で生還しても、心や精神をやられる帰還兵は多い。
■イラクで亡くなった仲間のことは忘れない
サイトウ軍曹の心身を少しずつ削っていたイラク派兵も終わりが近づいていた。
「通常、イラク派遣は12ヵ月で、長い人だと16ヵ月でした。自分たちは艦に往復2ヵ月乗っていたので、戦地にいたのは10ヵ月。最後の1ヵ月は、戦争映画のように帰還するまでの日数をカレンダーで数えたりしていました。
ただ、下っ端のわれわれは正確な帰還の日程までは教えてもらえないんです。一度、『72時間後に帰れます』と言われて喜んで待っていたのに、さらに3日も延長されました。
というのも、帰る際に3グループに分けられるんです。最初にヘリの整備士をクウェートに送り、次に機体と共に主力が帰る。そして、メディックはギリギリまで必要だとされて、自分含め10人くらい最後まで残されたんです。そしてついにC17輸送機に乗って、クウェートに戻りました」
遠のくイラクの地平に重なるように、10ヵ月の激動が眼底に再現される。
「自分の部隊も数人死んでます。ひとりはクウェートに到着した初日、艦の開いたランプ(傾斜路)の下敷きになって事故死。次に1、2週間たった頃に基地の外で地雷にふたりやられて。ひとりは亡くなり、もうひとりは両足を失いながらも生還して米国に帰国しました。残りは戦闘中でした。その数人のことは絶対に忘れないです」
海兵部隊は揚陸艦に乗り、ペルシャ湾をたつ。
「帰りはオーストラリアのパースに寄って、そこで4泊しました。ただ、自分は風邪を引いてしまい何もできなくて......。その代わり、次の経由地だったハワイのパールハーバーで停泊したときには遊びましたね。
仲が良かったヘリの整備士たちと5人で街に繰り出しました。俺以外、全員白人でね。『日本食が食いたい』と言われたので『それじゃあ焼き肉だ!』となり、もう米、肉、ビールをガンガン飲んで食べて。酔っぱらって艦に戻れなくて、どこかのホテルで皆で寝ました」
兵士の体を治すフライトメディックと、そのヘリの機体を直す整備士という取り合わせだ。そして艦はハワイを出発する。
「艦を下ろされて、ハワイから飛行機で帰らされる隊員も100人くらいいました。というのも、『タイガークルーズ』といって、希望する隊員はその空いたスペースに家族を乗せることができたので。自分はひとりだったんですけど、最後まで艦に乗っていたかったので艦に残りました」
揚陸艦の甲板上で海兵隊徽章が与えられた。海軍から海兵隊に移行して、一人前として認められたことになる
隊員と家族を乗せた揚陸艦は1週間かけて穏やかに航海し、ついに1年ぶりとなるアメリカ本土がサイトウの眼前に広がった。
「揚陸艦が入港する前に、ウチらヘリ乗りはヘリに乗って発艦して、ミラマー航空基地に帰りました。基地には隊員の家族が待ち構えていて、着陸したヘリは同時にエンジンを止めて任務を完了する。
『ハリウッドシャットダウン』って呼ばれるやつです。ヘリを降りると皆の家族がワーッと集まってきてね。それを見て『俺には誰もいねえな』とか思いながら格納庫まで歩きました」
寂しさあふれるウォーヒーローの帰還。しかし、祝ってくれた人はいた。
■アメリカで軍人に向けられるまなざし
帰国してから数日後、サイトウ軍曹はサンディエゴのステーキハウスにいた。一緒にいるのはハワイで遊んだ4人だ。あのときは焼き肉だったが、戦場では『生きて帰ったらステーキを食おう』と常に言い合っていた。その約束を果たそうという日だった。
「皆でステーキを食って、ビールもたくさん飲んで、イラクでの思い出話もしてね。それでいざ会計をしようとしたら、『もうお支払い済みですよ。あなたたち軍人でしょ?』って。
どうやら俺らの会話が聞こえていた人が代わりに支払ってくれたみたいなんです。『誰か教えてください』って頼んでもダメって言われました」
オーストラリアのパースとハワイを経由しアメリカの自宅に生還。砂漠迷彩の茶色から森林迷彩の緑色の戦闘服に故郷を感じた
アメリカでは国のために命をかける軍人に、市民から敬意と感謝の視線が向けられる。
「軍人におごるみたいなのはアメリカではよくある話なんですよ。最初にメディックの術科学校が終わって、シカゴから岩国に行くときにもありました。シカゴ空港のレストランで海軍の制服のまま飲んでいたんです。私服なんて持っていませんでしたから。
そしたら知らない人たちから『俺の親父も昔は海軍だった』とか『身内に海軍がいたんだ』って話しかけられて、皆がバーでおごってくれたんですよ。『アメリカってスゲー!』って思いました」
そんなサイトウ軍曹は、イラクから帰国後に30日間の休暇を取っていた。
「2年ぶりに日本に帰国するためです。でも、成田に着いてもまだ『日本に帰ってきた』って感じがしなくてね。『そんなもんか』と思いながら、成田エクスプレスに乗っている間に食べようと、コンビニでアサヒの缶ビールとツナマヨのおにぎりを買って。
車内でそのおにぎりを食べたときに、『ああ、俺はやっぱり日本人なんだな』って思いました。全身の力が抜けるというか、『今は軍人じゃなくて堅気なんだな』って」
■ヘリ部隊の日常的な業務
日本からミラマー基地に戻ってしばらくすると別の部隊に異動が命じられ、ヘリもCH53に変更された。
「53は大きくて大好きです。だけど低空を飛んでいるときはかなり揺れるので吐きます。しかも、燃料のにおいもずっとキツくて。ガソリンスタンドにいるみたいな。それで揺れるので、何回も吐きました」
機内で吐いたら大変では?
「ヘリの底に、ロープを出したりするヘルホルツというパカッて開けられる穴があって、そこから吐くんです。まあたいてい間に合わなくて床を掃除することになるんですけど。
ちなみにトイレはないので、小をする場合は安全ベルトを腰に巻いて、後部ハッチから立ちションです。大は我慢するしかない」
イラク戦争から戻ってしばらくすると別の部隊に異動が命じられ、使用ヘリもCH53重ヘリコプターに変更された
そんなCH53ではどんな任務をこなしたのだろうか。
「カリフォルニアは乾燥地帯なので夏には必ず山火事があるんです。それを空から消火するのも海兵隊の仕事にはありました。
先ほど言ったヘルホルツからロープを出して、バンビバケット(空中用消火バケツ)をつるします。そして湖や海まで行き、ホバリングしながらそのバンビバケットを水で満たして、火災現場に行って指示された地点に水を投下します。一度のフライトで、何回か水源と火災現場を往復します。
ただ、53はものすごく燃料を食うので、現地のガソリンスタンドで燃料を補給する必要が出てきます。量も量なのであらかじめガソリンスタンドには伝えておくんですけど、行ったら30箱くらいピザをくれるんです。
もちろん軍人へのリスペクトもありますが、1回の補給で数百万円くらいは支払うからでしょうね。それを搭載してミラマーに戻ります。整備士たちもそれを知っているから、『今日は何をもらった?』って聞いてくるんです」
カリフォルニアは乾燥しており、山火事が頻発する。海兵隊のヘリ部隊は消火のために出動した(撮影/柿谷哲也)
その後、ミラマー基地はピザ祭りとなる。
「最終的には災害派遣2回と、ミラマーの航空祭2回。映画撮影も何回かやって、あとネバダ州のクリーチ空軍基地にも何回か行ってます。
あそこに行くときはエリア51(機密性の高い米空軍基地)の横を通るのでパイロットも緊張するんです。後ろに乗ってる俺らもビクビクですよ(笑)。イラクじゃ撃ち落とされないけど、エリア51の上を通ったらウチら軍隊でも余裕で撃ち落とされますから」
(撮影/柿谷哲也)
そして海兵隊に入って6年目、サイトウ軍曹は運命の決断をする。
「海兵隊幹部試験を受けようと思ったのですが、年齢制限に引っかかって受けられなかったんです。それで調べていたら、米陸軍ならば32歳まで受けられると知って、米海兵隊を除隊しました。ケガ人を見すぎたのも除隊理由のひとつです。そして、米陸軍の幹部試験に合格し、陸軍に入隊しました」
サイトウ曹長の米軍を巡る冒険は、海軍と海兵隊を経て、陸軍に移る。
最終回「陸軍・兵站(へいたん)大学編」に続く――。
取材・文/小峯隆生
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