8月30日(金) 6:00
45年前に連続テレビ小説『マー姉ちゃん』で、ヒロインを演じて人気を博した熊谷真実(64)。
近年も、静岡県浜松市への移住、63歳で3度目の結婚など、話題に事欠かないが、実はこれまで語っていなかった“壮絶な体験”が。40代の10年間、ある女性に依存し、精神的に束縛される生活を送っていたというのだ。
何度も逆境に見舞われながらも、常に“喜び”を探し続けてきた彼女の原点とは――。
「この時間ですから、きっとまだお昼ごはんを召し上がっていないと思って、お弁当を用意したんです。無添加で、国産、自社農場の野菜など安心な食材を使用している、浜松では有名なお弁当屋さんなんですよ」
静岡県浜松市内のカフェで、記者やカメラマンのために弁当やサラダまで用意して待っていたのは、女優・熊谷真実(64)だった。
話し好きなのか、すすめられた弁当を食べているあいだも、
「このカフェに来る途中の、うっそうとした木々の風景にほれ込んじゃって。もともと前の夫の実家が浜松にあって、コロナ禍で……」
切々と“浜松愛”を訴えたかと思えば、
「ごめんなさい。インタビューを録音する前からしゃべっちゃまずいですよね。あ、携帯電話がない!私よくやっちゃうんです。ちょっと捜しに行きます」
と、席を立つ。とにかく賑やかなのだ。
現在は浜松市に拠点を置き、東京と行き来している。浜松では地元企業のCMにも出演しており、今回の取材場所になったカフェ「(R)EANDY」(リアンディ)では、スペースの一部を間借りしてセレクトショップも展開している。
「’20年のコロナ禍による緊急事態宣言で、出演する予定だった舞台が3つもとんで、私の還暦祝いのパーティもなくなりました。東京では家賃35万円の家に住んでいました。でも3カ月もすれば収入もないのに家賃だけで100万円以上になっちゃう。それで’20年8月に浜松に移住しました。すんなり物件が見つかったのは“浜松に呼ばれた”からかな(笑)。
海も川も山へも車で30分あれば行けてしまう自然豊かなところもすごく気に入って。前夫とは’21年に離婚したけれど、そのまま住み続けています。移住直後、もし女優の仕事がなくなったときのことも考えて、玄米ご飯やスムージーなどをキッチンカーで販売することも計画していました。
そんなときにこのカフェの社長からセレクトショップをオープンするという話を持ちかけられたのです。社長いわく『全国の仕事先で、気に入った洋服や雑貨を見つけたら、ここに置いてもらえませんか?』と。かっこよく言えばバイヤーかな(笑)。店名は『Windy Lady』。このお店の名前も私が付けました。冬の浜松に吹く“遠州の空っ風”は、私にとって、嫌なこともすべて吹き飛ばしてくれる風ですから」
昨年には8歳年下の会社経営者の男性と3度目の結婚を果たし、63歳にして水着で週刊誌のグラビアに登場。今年4月には所属事務所からの“寿退社”をYouTubeで発表したかと思うと、6月には結婚パーティでのウエディングドレス姿を披露した。
自由で軽やかな彼女の生き方には、2度の離婚や母の死、そして10年に及ぶ“洗脳”生活を乗り越えた経験が生かされていた。
■「少女パレアナになりたいと思った」、苦悩を救った一冊の本
熊谷真実は’60年3月10日に東京都で生まれ、3姉妹の次女として育った。妹は女優の松田美由紀(62)。松田優作さんは義弟、松田龍平(41)や翔太(38)、ゆう姫(36)はおい、めいにあたる。
「父は、福岡から東京に出てきて、一代で、洋服の卸業や洋品店の経営で成功しました。母は事業の手伝いや店番をしており、毎日のように業者が出入りしていたので多忙だったと思います」
少女時代の真実はメガネをかけていたことをからかわれ、男子のいじめにあった。
「熊谷の“がい”から『公害だ!』なんてからかわれたことも。親が心配して、中学・高校は6歳上の姉が通っていた私立の女子校に入学したのです」
ところが、女子校でもうまくなじめない。
「ある日、ホームルームで私の言動が議題に上がったことがありました。男の人の前だと目をぱちくりさせていたみたいです。それが『ぶりっ子をしている』と批判されました。どうしたらみんなと仲よくなれるんだろうと悩んでいたとき、ある一冊の本と出合いました。アメリカの作家、エレナ・ポーターの小説『少女パレアナ』という本です」
孤児院で育ったパレアナが、どんな困難のなかでも、良かったことや喜べることを見つける“喜びのゲーム”によって明るくポジティブに生きていく姿を描いた作品だ。日本では’86年に『愛少女ポリアンナ物語』としてアニメ化され、「良かった探し」という言葉も有名になった。
「なんでも喜びに変える少女パレアナに心からなりたいと思ったんです。ぶりっ子だからと非難されるなら、逆にベリーショートにして、言葉遣いも男っぽくキャラ変して、楽しんでみようって」
それが功を奏して、逆に人気の存在に。所属していた演劇部の舞台に立つと女子生徒たちから嬌声を送られるほどだった。
高校卒業後、劇作家のつかこうへい氏の舞台『サロメ』の主役オーディションに合格。
「次々に奇跡のようなセリフを紡ぎ出す12歳年上のカリスマ作家に、18歳だった私はすっかり恋をしてしまったのです。あるとき、つかさんに連れられてドラマ撮影の見学に行くと、その後ドラマへの出演が決定。ドラマの名前は『三男三女婿一匹』。当時人気のテレビドラマで私は研ナオコさんの後釜に入る看護婦の役でした」
19歳のときにはNHKの連続テレビ小説『マー姉ちゃん』のヒロイン役を射止めた。だが彼女は“好きになったら結婚”という一途な思いを抱いていた。’80年、20歳の若さで、つか氏と結婚。
ところが結婚後、つか氏は彼女に主婦業を求めた。
「つかさんの生み出す作品が大好きで、つかさんの稽古場にいっしょに行けると思っていたのに、結婚したとたん、家にいなさいと言われて……。帰ってくるつかさんを待ち続けるには、まだ幼すぎたのですね。当時21歳の私は母とマネージャーに離婚届を出してもらって、2年間の結婚生活は終わりました」
■母との死別でできた心の隙間に“ある女性”が……
「つかさんがご存命のうちは、もう結婚しないだろうと思っていました」
つか氏との離婚後、ボーイフレンドはできたことがあるが、結婚に至ることはなかった。
「子供ができたら再婚するかもしれないとも考えていたのですが、それもありませんでした。離婚のとき、そしてボーイフレンドとの別れのたびに落ち込みましたが、母は常にそばにいて、私の悲しみを軽くしてくれました。25歳くらいからはいっしょに座禅道場にも通ったりして仲のよい母娘だったのです」
そんな母が56歳のときに、がんが見つかった。
「足のがんで、医師からは『すぐに切断してください』と言われるほど進行していて。ママっ子だったから“ママが死んだら私も死ぬ”というほど落ち込みました」
“人生で、あれほど悲しむことはないだろう”と振り返るほどつらかった母との死別によって、数年間、真実は立ち直れなかった。
「いつも寄り添ってくれたから、心の行き先がわからないという感覚。そんな状況だった40歳のとき、母と同年代の“ある女性・Aさん”に出会ったのです」
舞台に出演していると、たとえ捻挫をしても公演を休むわけにはいかない。
「Aさんは業界では有名な方で、医師でも治してくれないような痛みを治してくれたのです。私は神がかった技術を持つ彼女に、亡くした母の面影を見てしまい“この人といっしょにいたい”と感じるようになりました」
元来まっすぐな性格の真実は、Aさんに心酔し、依存度を高めていったという。
「私がテレビで着る洋服は、スタイリストではなく、全部Aさんが決めていました。だから40代のときの写真を見ると今より老けて見えますよね(笑)。
仕事が終われば、すぐに家に帰って、その日にあったことをAさんに報告しなければなりませんでした。打ち上げに出席することも禁止されていたから、現場で出会った人と親睦を深めることもできなくなってしまったのです」
携帯電話に登録されている男性の連絡先も削除させられた。
「Aさんからは『あなたの根底にある問題は、男性関係だ』と言われ、私は何の疑問も感じずに『はい、消します』と言いなりでした」
所属していた事務所もやめて、Aさんといっしょに個人事務所を立ち上げた。
「当時を知る友人からは『すごく明るかった真実ちゃんが、突然よそよそしくなった』と言われましたが、私自身にはその自覚すらありませんでした」
孤立すればするほど、頼りになるのはAさんだった。
「『あなたはダメだ』と何度も何度も言われると“ああ、私はダメな人間なんだ”って自信を失ってしまうのですね。姉や妹とも会わず、周りに頼れる人もおらず、彼女に依存するしかありませんでした」
40代の約10年、Aさんと過ごしてきたが、50歳に大きな転機を迎えた。
「ある大きな舞台をやり遂げた私に『しばらく部屋に籠もって今までのことを反省しなさい』とAさんは言いました。共演した役者さんは次の仕事に取り掛かっている。なんで私だけ部屋に籠もって反省しなきゃいけないんだろう。当時私は50歳を迎えたばかりでした。そのとき気がついたんです。
“私、もう50歳じゃん!”って。それなのに、私は彼女に依存するばかりで、気がつけば何も決められない人間になっていたのです。“このままではまずい”と急に目が覚めて。母方の叔母に相談し、彼女と離れることができたのです」
Aさんから離れることができ、しばらくしたころ、出演していた舞台の楽屋にAさんに心酔していた人たちがやってきたという。
「『先生はお元気ですか?』と尋ねると、『毎月、毎月、お金の取り立てがすごくて、通帳を見せて残高がないのを証明しなければならないほど。私も追い込まれて、先生と別れました』と聞いて“えー!”って思って。もしかしたら高い勉強代を払っていたのかもしれないですね。
後になって、Aさんと出会う前から私を知る友人には『真実ちゃん洗脳されてたんじゃない?』『この10年間別人だったよ』と言われて、“そうだったのかな”と思いました。
でもAさんといっしょにいた当時は、Aさんの家族とファミレスで食事をしたり、旅行をしたり、本当の家族ができたみたいで楽しかったのも事実なんです。とくにAさんのお孫さんとは仲がよくて、私がAさんに怒られても『真実ちゃんは悪くない』っていつもかばってくれていました。Aさんと過ごした10年間は、もう一度は繰り返せないですけど、後悔もしていません」
【後編】「自分自身が楽しみ、人にも喜んでもらう」熊谷真実3度目の結婚と幸せをつかんだ“喜びを見つけ続ける”人生哲学 へ続く
(取材・文:小野建史/撮影協力:(R)EANDY)