篠塚和典が振り返る、1番・松本匡史がいたからバッターボックスで「楽しめた」こと

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篠塚和典が振り返る、1番・松本匡史がいたからバッターボックスで「楽しめた」こと

7月31日(水) 10:10

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篠塚和典が語る「1980年代の巨人ベストナイン」(6)

松本匡史後編

(中編:「青い稲妻」松本匡史のすごさホーナーの本塁打を「アシスト」した逸話も>>)

篠塚和典氏が語る、かつて巨人の1番として活躍した"青い稲妻"松本匡史氏のエピソードの後編。篠塚氏にとっての松本氏という存在、1980年代のメンバーとの野球が楽しめた理由などを聞いた。

青い手袋とメガネがトレードマークだった松本photo by Kyodo News

青い手袋とメガネがトレードマークだった松本photo by Kyodo News





【33歳で引退後、コーチに】――先ほど(中編では)、松本さんは「ボールをよく見るタイプの1番バッター」という話が出ましたが、その後に控えるバッターたちが相手ピッチャーの特徴や調子などを見極める上でも、ありがたい存在ですね。

篠塚和典(以下:篠塚)特に、初めて対戦するピッチャーはどういうボールを投げるのかわかりませんから、松本さんがバッターボックスに立って感じたことを、後ろのバッターに伝えていました。やはりデータと、実際に対戦して感じることは違う場合もありますから。

ただ、僕が2番を打っていた時は、松本さんがアウトになってベンチに帰る場合、僕はバッターボックスに向かうので相手のピッチャーに関しての話が聞けません。なので、2番の時は自分で体感するしかなかったんですね(笑)。

――バッティングに関しての話をしたことはありましたか?この連載で、ウォーレン・クロマティさんや中畑清さんが、篠塚さんの逆方向に打つバッティングを参考にしたという話も聞きましたが。

篠塚松本さんとは、バッティングについて話すことはなかったです。いつも他愛もない話ばかりでした。もしかすると、僕のバッティング練習を見て参考にしてくれた、といったことはあったのかもしれませんね。

――松本さんは1987年に33歳で引退しました。もっとできたと思いますか?

篠塚体力的には問題なかったと思います。ただ、監督にもいろいろな考えがあったでしょうし、次の世代の選手を育てなければいけなかったり、チーム全体の構成を考えていくことが優先されますからね。その時の気持ちを本人に聞いたことはないので、なんとも言えないところもあります。

――松本さんは引退の2年後に、一軍守備・走塁コーチとして巨人に復帰。その後も二軍の監督やコーチなどを歴任されました。指導者としての印象はいかがでしたか?

篠塚僕が現役時代に一軍のコーチもされているのですが、一塁コーチャーの印象はあっても、ノックをしていた印象があまりないんですよね......。自分の記憶が飛んでいるだけかもしれませんが(笑)。

確実に言えることは、あれだけの盗塁(通算342個)を記録した"足のスペシャリスト"ですから、そのノウハウを伝えてほしいという要望があったからこそ、指導者として長く必要とされていたんだと思います。

【1980年代は「いいメンバーと野球ができた」】――おふたりは長く巨人の上位打線を担っていましたが、篠塚さんにとって松本さんはどんな存在でしたか?

篠塚僕が2番か3番で、松本さんが1番というケースが多かったですが、バッティングを楽しませてくれましたね。僕が2番を打っていた時は、松本さんが出塁した際には盗塁するのを待って打ったり、送りバントをすることも多かった。それが3番の時は、無死や一死で松本さんが二塁や三塁にいるケースが多く、打席のなかで考えることが多くなったんです。

二塁にいる時はシングルヒットでタイミングが際どくても還ってきてくれますし、三塁にいる時はボテボテのゴロや浅いフライでもホームインしてくれる。だから僕は「どういうバッティングで松本さんをホームに還そうか」と、いろいろ考えを巡らせていたんですよ。そんなふうに、プレー中に「楽しい」と思えたのは、松本さんのような1番バッターがいてくれたからでしょう。

――バッティングを楽しめる状況を、松本さんが作ってくれたんですね。

篠塚そうですね。それと、1980年代の巨人のレギュラーを張っていたメンバーは個性があって、タイトルを狙える選手がそろっていました。盗塁王なら松本さん、打点王やホームラン王なら原辰徳、ウォーレン・クロマティや吉村禎章などは首位打者を狙えました。レギュラー陣のバリエーションが豊かだったので1980年代はけっこう楽しめましたし、いいメンバーと野球ができました。

――篠塚さんは首位打者のタイトルを2度獲得していますが、首位打者を狙う上でチーム内にもいいライバルがいた、という感覚でしたか?

篠塚そういう気持ちもありました。チーム内で競争できることが、結果としてチームの勝利につながりましたからね。原やクロマティ、中畑さんも吉村に対してもそうでしたが、競い合いながらも、「頑張ってタイトルを獲ってほしい」という思いもありましたね。

――松本さんは、そんな強力打線のリードオフマンとして打線を牽引しました。

篠塚松本さんが塁に出れば、ファンの方々は「走るぞ」という感じで神経を集中させていたでしょう。それで盗塁を決めれば、次は後のバッターが松本さんをどう還すかに集中する。ファンの方々はそういう楽しみ方ができたと思います。出塁して走ることは、1番バッターの見せどころですからね。

【プロフィール】

篠塚和典(しのづか・かずのり)

1957年7月16日、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年に現役を引退して以降は、巨人で1995年~2003年、2006年~2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。

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