7月9日(火) 10:00
Text:谷岡正浩Photo:吉田圭子
1987年のデビューから、瞬く間にシーンのトップに躍り出た永井真理子。「ミラクル・ガール」、「ZUTTO」などのヒット曲とともに、ショートカットにクラッシュデニムというスタイルで飛び跳ねるように歌う彼女の姿は鮮烈だった。アーティスト/シンガーとしてのあり方を模索した90年代、音楽活動から遠ざかった2000年代半ば以降を振り返りつつ、10年ぶりに復活した2017年から続く永井真理子の「今」を語ってもらった。
ご飯食べなくてもいいから歌っていたいっていうくらいの気持ちでした――デビューまでの経緯がありそうでないパターンですよね。ざっと言うと、デモテープを作ってアポなしでレコード会社に持って行き、たまたま取り次いでくれた方が後々のプロデューサーで、その日に音源を聴いてもらうことができ、そのままデビューにつながると。なんかすごいです(笑)。
しかも音楽をはじめて半年経つか経たないかくらいの頃だったので。
――そうなんですか!
だから毎日起きるたびに、あれ?夢じゃないんだ?って思うくらい次々に新しい扉が開いていくような状況でした。
――そもそも音楽をはじめた時点でプロを目指していたんですか?
プロという明確なところまで意識として持てていたかどうかはわからないんですけど、音楽をはじめる前――高校の3年間は全寮制の学校で、ものすごい狭い世界の中で生きていたんです。そこから短大への進学で東京に出て、一気に弾けたんですよ(笑)。何がやりたいの?音楽がやりたい!って。それで何もわからずに他大学のサークルのバンドにコーラスの空きがあることを見つけて、なんでもいいからやりたい!って言ってそこに入れさせてもらったら、もう歌うことが本当に楽しくて仕方がなくて、プロになるとかどうとかよりも、音楽をやることに恋しちゃったっていう感覚だったんですよね。ご飯食べなくてもいいから歌っていたいっていうくらいの気持ちでした。だからデモテープを作ったのもその勢いなんですよ。で、作っただけでなく持っていっちゃったっていう(笑)。ほんとに何にもわからなかったからそんなことができちゃったんですよね。普通に音楽業界の知識が少しでもある人なら、「そんなの無理に決まってるじゃない!」って思いますよね(笑)。
――何かに夢中になるバイタリティというのは、子供の頃からそういう性格だったんですか?
基本的にはそうだったと思うんですけど、ただ人見知りで、あまり人前に出るのが得意ではなかったんですよ。だから内に秘めたものはあったんですけど、じゃあ実際に何か具体的なアクションを起こせていたのかといえば、何も出来ていなかったっていうのが現実でした。そのひとつが音楽だったんです。ギターの練習をコソコソしたりはしたんですけど、人前でやったりすることはとても出来なかったし、うちは父親が厳しい人だったので、まずそんなことをやっているっていうこと自体も秘密にしてたし(笑)。
――で、全寮制の高校時代もあって、ひとり暮らしを機に一気に弾けたと。大学のサークルでバンドに入って、そこから自分でデモテープを作ったのはどういうきっかけがあったんですか?
そもそもそのバンドのメンバー募集には「プロ志向」って書いてあったんです。プロっていうのがどういうことなのかはわからなかったけど、ここは本気でやってるに違いないって思って私は入ったんです。なのに半年もしないうちにみんな就職活動とか始めちゃって。ちょっと待ってよって(笑)。そこで何か悔しくなっちゃって、だったらひとりでもやってやろうじゃないかってデモテープを作ろうと思ったんです。その時に出会ったのが、現在も作曲家として活躍している前田克樹さんだったんです。彼は私の入っていたバンドのギタリストの人の同級生だったんですよ。それで、前田さんに手伝ってもらいながらデモテープを作ったんですけど、その中には後に私の代表曲にもなる「One Step Closer」がすでにあったんです。
――デモテープを作る時点で理想とする音楽像というものがあったんですか?
いえ、とにかく歌いたいっていうことだけでした。前田さんが私の歌声とキャラから、こういう感じが似合うんじゃないかっていうものに、ご自身の好きな音楽をブレンドしてできていったんですけど、それがうまく私の気持ちにハマってスタイルになっていったんです。
――デモテープを最初に聴いてくれたプロデューサーの方は、永井さんのどこに可能性を感じたか、というのは伺ったことはありますか?
声がすごく好きだっていうことをおっしゃっていただきました。レコード会社の裏にあるカフェで聴いてもらったんですけど、「今聴いてください!」って言った私の目力がものすごくて、炎が見えたって(笑)。
――なかなか断りづらいですね(笑)。
あはは。そうですよね(笑)。それと、これは後から聞いたんですけど、当時そのプロデューサーさんは他のレコード会社から移って来たばかりだったから、せっかく新しいところで始めるんだったら、若い才能を一から発掘して世に送り出したいって思っていたんですって。そんなところに、炎の目の私がやって来たみたいです(笑)。
順位や売り上げよりも、自分がそのときに何をやりたいか――デビューすることが決まってから準備期間が1年ほどあったんですよね。
10代のうちにすぐデビューしたらどうですかっていうお話をいただいたんですけど、母親がすごく反対したんです。当然私の性格も熟知していますから(笑)、今は熱くなって勢いでそっちの方に向かって行っちゃってるけど、少しでも厳しさを知ったらすぐに諦めるんじゃないかって。そういうことを心配していたみたいです。だから1年間学業にちゃんと専念して卒業したら20歳だから、もう大人だし自分で決めてもいいんじゃない?って。正論です(笑)。
――1ミリも言い返す隙がないですね(笑)。
そのときは悔しかったけど、でもそうやって許してくれるんだからまあよかったなって思えました。じゃあその1年間を準備期間に充ててアルバムを作っちゃおうってレコード会社の人から提案があったんです。だから在学中にはもうアルバムが出来ていたし、当時東海地方で人気のあったラジオ番組にレギュラー出演させていただいたり、だからデビュー前には私のことを知っていてくださる人たちがラジオを通していたっていう状況が出来ていたんですよね。そういう意味でも、すごく大切な1年になったし、実際にデビューしてすぐにいいスタートを切れたんです。
――デビュー・アルバムには先ほどデモテープのところで出てきた前田さんの曲が半分近くあって、そういう意味では自分の信じた音楽性をブレなく追求できたという感じだったのでしょうか?
そうですね。わりと当時は、ソロシンガーの場合、ガラッと変えられたりすることも多かったと思うんですけど、私の場合はおっしゃったように前田さんのおかげもあって、自分のやりたいことがちゃんと出来ていました。
――デビューからかなりのハイペースで作品をリリースしていくわけですが、3年目くらいになるとだんだん苦しい時期に入っていったと過去のインタビューではお話をされています。どういう状況だったんですか?
ほとんどの皆さんが同じだと思うんですけど、やりたいことも少しずつ変わっていくわけですよ。でもそれはわがままとかそういうことではなく、きっと「成長」のヒントなんです。ただ、なかなかそこを理解してもらえないっていうズレみたいなものが生じてくるんですよね。いくら私が新しいチャレンジをしたいと言っても、それまでリリースしている楽曲は人気があって順調すぎるくらい順調にセールスを重ねている、だからプロダクションやレコード会社からすれば、「何も変える必要はない」っていう結論になるんです。それはそうですよね。
――まあ、そうですね。
あとは、忙しくなりすぎて、自分の時間がどんどんなくなっていったんです。新しいことをしたいっていう思いはあるんですけど、まったくやれない――酸素が足りない感じになっちゃったんです。気持ちだけが膨らんでいって、それを解放する道のすべてが閉ざされていくような感じがしました。それでどんどん不安になっていくんですよ。これでいいのかな?とか。もっといろいろ間違ったりしてもいいから、そのときの自分に必要なものを見つけていかなくちゃいけないんじゃないかな?って。もしこのまま忙しいだけで時間が過ぎていけば、すぐに自分の気持ちが終わってしまうんじゃないかなって思っていました。その頃に私が書いた歌詞は理想と現実が噛み合わない葛藤を綴ったものが多いと思いますよ(笑)。
――「23歳」(1990年)なんかはその際たるものですよね。
はい。
――そうやって自分の苦しさを歌詞にしていくことで、それは解消されていったんですか?
逆に自分の思いが明確になっていったので、さらに自分のやりたい方へ気持ちはシフトしていきました。
――なるほど。
それで、7枚目のアルバム『OPEN ZOO』(1993年)のときに全部を変えたんです。周りのスタッフからやり方に至るまですべて。ただ、一気に何もかも変えるわけにはいきませんから、最初は既存のスタッフさんに新しいスタッフさんを入れて、昔のものを捨てるのではなく融合させていくという方向で体制を変えていきました。
――とはいえ、前作の『WASHING』(1991年)では、アルバムチャートで初の1位に輝いていますから、そこを変えるというのはかなりの勇気と労力が必要だったでしょうね。
私はチャートの順位とか売上枚数とか気にしたことがなかったので(笑)、このタイミングで変えることに躊躇はなかったですね。もうデビューする前からそこは変わってないんですよ。順位や売り上げよりも、自分がそのときに何をやりたいか――それが一番大切なことで、それが出来なければ歌は歌えないと思っていたので、その気持ちが命そのものだと思いました。
――『OPEN ZOO』で叶ったことというのは何だったんですか?
それはもう全ての収録曲において自分が入って、これをやりたい、あれをやりたいっていうことを具現化していけたことですね。そのためのスタッフさんが集まってくれましたし。
――当時の反応としてはどうだったんですか?
やはりファンの方からも「ちょっと違うんじゃないか」っていうような反応はありましたし、これまでのチームからもいろいろと陰で言われたりっていうことはありました。「あの子言うこと聞かなくなっちゃったね」って。違うんだけどな……って私としては思いながら。それでも自分の気持ちに忠実にやるということが一番なんだと信じていました。
ようやくいろんなものをきちんと抱きしめられるようになった――ここで少し話は飛ぶんですけど、10年間のオーストラリアでの生活の後、日本に戻って来られてデビュー30周年のタイミングである2017年にミニアルバム『Life is beautiful』を発表し、ライブも行いました。以降、新しい作品をリリースしながら、セルフカバーという形で過去のご自身の楽曲をリアレンジして発表されています。まずは、セルフカバーをしようと思ったきっかけは何ですか?
新しい曲を作って発表していくっていうことが私のやりたいことの根本にはあるんです。それとライブですよね。で、ライブのセットリストには当然過去の楽曲も入ってくるわけですけど、そうすると今の私の気持ちに寄り添った今の音楽のアレンジが必要になってくるんです。そうやってライブアレンジでやっていたら、ファンの人たちからセルフカバーをアルバムとして出してほしいっていう声が寄せられるようになって、そんなに望んでくださるんだったら今やっているライブアレンジを集めて作品にしてみようというのがきっかけですね。
――ライブでやるのと作品にするのとではまた違うかと思うのですが、やってみていかがでしたか?
やってよかったと思いました。今の私の声とサウンドでやることによって、懐かしさと新しさが一緒になったというか。それと、曲を提供してくれた作家さんたちへ改めて感謝することができたっていうのがとても大きかったですね。私は活動していなかった期間も長くあったから余計に思うんですけど、楽曲って、それを歌う人がいなかったら終わっていっちゃうんですよね。私のために作ってくださったものを私が歌わなかったら終わってしまう。だからリアレンジして私が歌うことで、それを聴いてくださった人たちの中でまた新たに芽生えるものがあると思うんです。ある時期には、絶対に過去なんか振り返りたくないって頑なになっている時もありましたけど――それはそれで必要なことなんですけどね――ようやくいろんなものをきちんと抱きしめられるようになったんだと思います。
――若いときの曲を今歌うことで発見するものはありますか?
新曲を歌っているみたいなんです(笑)。若い頃に曲をいただいたときは、ただ無心に必死になって歌っていただけで、そこから何百回も歌って、今はそれぞれの楽曲ごとの景色が違うというか、今の私もそこに加わっているので、すごく新しい体験なんですよね。
――セルフカバーがファンの方々によるリクエストの大きなきっかけとしてあったということですが、2017年の活動再開もファンの皆さんの後押しが大きかったんですよね。
そうなんです。10年以上お休みしちゃっていましたし、自分の中でも……歌いたいことや自分の立ち位置みたいなことがわからなくなっちゃっている時期だったんですよね。それまでは、一歩先すらも見ないで勢いで活動してきたわけじゃないですか、せっせと。それがフリーになって、遠い世界に行ったときに、ふと気づけば、後ろを振り返るしかないんですよね。前に何も予定がないから。そうすると、自分はいったい何を残してこれたんだろう?とか、あのときのあの忙しい自分は忙しいことで「十分頑張ってきた」と勘違いしてただけだったのかな?とか。ちょっと自分のことを責めたりだとか……。どこまで巻き戻してどうやって修正したらいいのかもわからない。初めて自分自身を振り返ったんですよね。結果的にそれも必要なことではあったんですけど、そのときはずいぶん深く落ち込んだりしました。そうすると自信もなくすし、やりたいこともわからなくなっちゃって、うん、休もって。
――音楽を続けるという意志を持ってオーストラリアに行かれたんですか?
はい。向こうで、もっと違う空気感の中で自由に音楽をやって作っていこうと思っていました。作品も出したんですけど、先ほど言ったような迷いもあって、途中から育児に専念していました。不思議なもので、毎日走り続けていた日本を離れて遠く距離ができると、自然と目の前のものの方が愛おしく感じられるようになるんです。それは決して悪いことではない。素直に受け入れていました。いつの間にか、私って本当にステージに立ってたんだっけ?って忘れかけるくらいそっちの世界が遠くなっちゃったんです(笑)。鼻歌を歌うのも怖くなっちゃっていました。
――それは“苦しい10年間”だったのでしょうか?
いえ、そういうわけではなかったですよ。日々の生活は充実していましたから。ただ、自分の根っこには、音楽をやりたいっていう気持ちが残っているので、そことの葛藤は常にあるんですよ。何をやっているんだい君は?まだまだできるよね?っていう。でも、その葛藤する期間が長かったおかげで、音楽をやりたいっていう根っこの部分がすくすくと育っていったんですよね(笑)。ちょうどそのタイミングでデビュー30周年ということに気づき、というか気づかされ(笑)、懐かしいスタッフさんたちにも背中を押されて、今だ!って立ち上がった感じです。これが最後のタイミングだって思いました。
――まず何をやりたいと思ったんですか?
やりたいというか、やらなければいけないと思ったのは、新しい曲を作るということでした。私が何十年ぶりに出てきて、昔の曲だけを歌う懐かしい人になるのは絶対にやめようと。自分はやりたいことを全部やる人生をこれから送って行って、自分がこの世からいなくなる最後の瞬間に、本当に音楽をやっていて楽しかった、人生が最高に楽しかったって思えるようにしたい。そのためには新しい経験を積んでその気持ちを曲に乗せて歌い続けることが大切。それと同時に、自分を育ててくれた過去の曲を大切に歌い継いでいくこと。このふたつですね。
――曲の作り方は昔と比べて変わりましたか?
作り方というか、昔はとにかく締切がタイトでしたから(笑)。だって最初の頃なんて1年に2枚アルバムを出してましたからね。完全に自分のキャパシティをオーバーしていました。今は、自分が感じたことや感じたいこと、ステージの上から見えたお客さんの表情とかファンの人たちとの思い出、そういうものを中心に詞を書いていこうっていうふうに、ようやく心に余裕ができてきました。SNSで皆さんと繋がれることで、より一層そうした方向に向かいやすくなっていく流というのもあると思います。
――それは「思い出」と言いながら、「今」を歌っているということですよね。
そうですそうです。
――そう考えると、「23才」のなかで〈今は何を探せばいいのかさっぱりわからない〉と綴っていたのが懐かしいですね(笑)。
ほんとですね(笑)。今はもうやりたいことがたくさんあって、それをひとつずつきちんとやれているっていう実感がありますね。復帰以降、心が強くなってる。誰に何を言われても自分が崩れることはないんだっていう自信があります。それもこれも、若い頃のがむしゃらな時期やオーストラリアで活動を離れていた時期、すべてを通過してきたからなんだと思います。
自分の居場所を照らしてもらって“ここ”にたどり着いたんだなっていうことに気づいた――2022年にKT Zepp Yokohamaで「Re★Birth of 1992」と題して、1992年8月7日に横浜スタジアムで行われたライブのオマージュと言いますか、当時と同じセットリストで、当時のバンドやスタッフが集まってライブを行いました。これは今の永井さんにとってどのような意味がありましたか?
すごく貴重な体験でした。セットリストは同じだったんですけど今のアレンジにしたものも混ぜたし、当時のライブをオマージュした演出もあったりして、いったいどんな気持ちになるんだろう?って思ってたんです。そしたら、懐かしさよりも新鮮さの方が優っていたんですよね。あ、新しいって。ここから私たちは全然新しくなれるなって思えたんですよ。あの頃よりカッコいいんじゃないかなって。
――それはもしかしたら、お客さんもそういうふうに希望を持てたからステージ上でそう感じることができた、ということなのかもしれませんね。
本当にそのとおりだと思います。みんながカッコよかった。当日の会場には、20年前に横浜スタジアムに来てくれた方も多かったんですよ。このライブをきっかけに、その頃に仲の良かった友達に久しぶりに声をかけて来ましたっていう人もいたし、一方で20年前は行けなかったけどやっと来れたっていう人がいたり。そうやって懐かしさと一緒に新しい何かが始まっていくっていうムードに溢れていたんですよね。私もようやく昔の自分に、「今はこんなに楽しくやってるよ」って言えたような気がしたんです。ステージでも言ったんですけど、「こんな未来があるんだから、ほんとに長くやってて良かったね」って。
――2019年にリリースしたアルバム『W』の中に「ORANGE」という曲があります。公式ファンクラブ「Orange Heart Club」の名称にも「Orange」が使われています。オレンジは特別なものなんですか?
「ORANGE」は今の私のテーマソングみたいなものなんですけど、復帰して「ただいま」っていう気持ちを込めて小さい規模のサーキットツアーをさせていただいたんです。そしたら会場に来てくれた皆さんが涙を流しながら「おかえり」って言ってくれて、それが本当にうれしかったし、力になったんです。その経験をもとに私のことを待っててくれた皆さんに向けて書いたラブレターが「ORANGE」なんです。そのツアーの中に尾道の会場があって、ライブの次の日に福岡に移動する中日で海と空を見ながらオレンジジュースを飲んでたんです。オレンジの香りに包まれながらこれからのことをぼんやりと考えて作った曲なんです。
――だからオレンジが幸せな未来とファンの皆さんとの絆を象徴するものとしてあるんですね。
そうなんです。
――10月13日(日) にEX THEATRE ROPPONGIで「Special Live 2024〜君が光を照らす〜」というスペシャルライブの開催が決まっています。
EX THEATRE ROPPONGIはやってみたい会場だったんです。なんていうんでしょう、包まれているような会場の形が素敵だなって思ってて。ラッキーなことに2月に行われた岸谷香さんのイベントに呼んでいただいたときにステージに立たせていただいたんですけど、本番の前に2階席に座ってステージを見たり、いろいろとシミュレーションをしておきました(笑)。今までは、300~400くらいのキャパシティの会場で1日2公演やるっていうことが多かったんですけど、今回は毎年やっている「ファン感謝祭」も一緒にしてお祭りっぽく一気にみんな集まってもらおうって思ってます。
――どんなライブになりそうですか?
お祭りなので、皆さんからリクエストを募集して、投票数の多いものからセットリストに組み込んでいこうかなと思っています。それと――やりたいことがたくさんあるんですけど(笑)、スペシャルゲストさんが来てくれます。まだ発表はできないんですけど、楽しみにしていてください。皆さんも大好きな方だと思いますよ。で、あとは、去年の「ファン感謝祭」で約束していたんですけど、新曲を披露します。そしてそして、みんなで思い出を作れるシーンを考えています。これもまだ秘密。なので、スペシャルのバラエティボックスみたいなライブです(笑)。
――「君が光を照らす」というサブタイトルがついていますね。
これはまだリリースしていない曲で、去年の「ファン感謝祭」のときに初めて披露したんです。去年と今年に、ファンツアーを長野県の安曇野でやったんです。そのときに夜空撮影会っていうのをやって、みんなでスマホのライトで私を照らしてもらって撮影会をするっていうのをやったんですよ。これが本当に素晴らしくて、私から見たら、皆さんが星のように思えて。
――それで「君が光を照らす」なんですね。一瞬日本語の意味が追いつかなかったんですけど、なるほど、ようやくわかりました。
皆さんの光に照らされながら、私はこうやって今まで歩いて来られたんだなって思ったんです。自分の居場所を照らしてもらって“ここ”にたどり着いたんだなっていうことに気づいたんです。なのでその気持ちを曲にしました。もちろんこの曲も歌います(笑)。
――それにしても、今とこれからのお話をされているときの表情や声がいきいきとしていますね。
昔はやることが決まっていたので自分で何をやるかを決めなくてもよかったくらい忙しかった。で、途中でお休みしているときは、自分で何をやったらいいのかわからなくなった。でも今は、自分のやりたいことが山ほどあって、それがどんどん溢れ出てくるんです。
ぴあアプリ限定!
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【応募方法】
1. 「ぴあアプリ」をダウンロードする。
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<ライブ情報>
永井真理子 Special Live 2024 〜君が光を照らす〜
10月13日(日) 開場16:00 / 開演17:00
東京・EX THEATER ROPPONGI
A席8,000円 / B席7,000円
※7月17日(水) までぴあアプリ先行実施中!
お申し込みはこちら★★★EX公演に向けてリクエスト曲受付中!★★★投票はこちら
永井真理子『エムズノスタルジック』
7月14日(日) 宮城・誰も知らない劇場
7月20日(土) 東京・月見ル君想フ
ゲスト:遠藤響子
7月21日(日) 東京・月見ル君想フ
ゲスト:藤井宏一
出演:vo 永井真理子、gt 前田克樹、key 高橋亜土
オフィシャルサイト:
https://marikonagai.amebaownd.com/