45歳で離婚、47歳で留学、60代で再婚マツコが絶賛するアップルパイの美味しさの秘訣

パワフルに、縁を大切にしながら年齢を重ねてきた平野さん(撮影:原田圭介)

45歳で離婚、47歳で留学、60代で再婚マツコが絶賛するアップルパイの美味しさの秘訣

4月21日(日) 6:00

レシピやパイ皿などが用意され、教室のキッチンには大きなオーブンがどーんと鎮座していた。

ここは「松之助N.Y. 東京・代官山店」から徒歩2分ほどのマンションの一室。そこで「平野顕子ベーキングサロン」が開かれていた。

「生地はサッサと混ぜないとあかんよ」

そう言いながら、生徒の手つきに目を光らせる平野さんは、京都・高倉御池と東京・代官山に「松之助」のケーキショップとお菓子教室を展開するオーナーだ。

オーナー自ら教室に立ち、生徒たちのテーブルを回り、京都弁と英語で口を出し、横から手を出し、手取り足取り教えている。

生徒のほとんどが10年以上通っている。2002年から皆勤賞という人も。通い続ける理由を聞いてみた。

「もちろん、アップルパイが美味しいから」
「それに先生のお話が楽しくて、元気になれるんです」

6人全員が口をそろえた。

「松之助」は、日本にあるアメリカの伝統的焼き菓子店では草分け的存在だ。食品のセレクトショップ・DEAN&DELUCAで2003年からここのパイを販売している。

りんごを煮ないで生のままパイ皮に包み、焼き上げるのが特徴で、サクサクとしたパイの中にジューシーなりんごがたっぷり詰まっている。甘いものが苦手な記者も、目からウロコの美味しさだった。

フレッシュなりんごの香り、酸味、自然の甘味がそのまま口の中で優しいハーモニーを奏でる。

「アメリカのケーキといえば、甘い、大きい、えげつない色というイメージがありますやん。でも、このアップルパイはアメリカのニューイングランド地方に昔から伝わる家庭の味なんです」(平野さん)

芸能界にもファンが多く『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ系)では、2007年に薬師丸ひろ子がおすすめのお土産として紹介。昨年末の『マツコの知らない世界』(TBS系)でも平野さんは“アップルパイ界のゴッドマザー”として紹介され、全国の名店のパイを食べ比べたマツコに「私、これがいちばん好き」と言わしめた。

■23歳で結婚した夫とは価値感の違いで離婚。二十数年前に叶えられなかった留学を決意

平野さんは京都で生まれ育った。

家は武者小路通にあった能装束織物の織元。日本舞踊は幼少期から15年習って、名取の腕前。

幼稚園のころ、ロビンちゃんというアメリカ人の親友がいて、アメリカに憧れを抱くようになった。

中学・高校には外国人教師が多く、卒業後は留学するつもりで準備をしていると、父が40代の若さで夭折してしまう。

葬儀を終えたら、アメリカに行くつもりだったが、母から「私を残してアメリカへ行くの?」と言われ、留学は諦めるしかなくなった。

母の勧めるまま23歳で結婚。夫は、福井県の港町の歯科医だった。

「42歳で夫を失った母には、私に婚期を逃させまいという強い思いがあり、私も母の敷いたレールに乗って結婚してしまった。今となっては痛恨の極みです。若いころの私は、現在の私とは大違い。主体性が全くなかったんです」

女性は、結婚して家事と育児に専念するのが正解で幸せと、誰もが信じた時代。23歳の平野さんには結婚に抗う術も理由もなかった。

「夫は歯科医としては優秀で、尊敬できる人でしたが、家庭ではワンマンで、性格や考え方には相いれない部分が多かったんです」

価値観の違いは日々、積み重なっていく。初めて友人を家に招いたときのこと。友人が連れてきた2歳の息子が食べ物をこぼすと、

「子供がこぼした床は、早く掃除したらどうですか」と、夫は少し声を荒らげて、注意した。

冷や水を浴びせられた思いだった。続いて怒りが湧いてくる。

「彼女は私の友人ですよ。なぜ、私に言わないのか。強い違和感を持ちました。夫からは『とにかく目立たないように』と言われ、娘と息子の子育てと教育が私の仕事と思っていました。それだけに子供たちが自立してからの夫との暮らしが考えられない。別々に生きようと心の中で決めていたんです」

息子が大学に進学した45歳で離婚。東京の大学に通っていた娘の家に居候して、元夫から得ていた少しばかりの生活費とアルバイトで、何とかなるだろうと考えていた。ビシッと叱ってくれたのは娘だ。「世間知らずもいいとこよ。バカよ」

新聞の求人欄を見ても正社員の求人は30歳以下がほとんど。40歳過ぎで専業主婦だった自分に簡単に職は見つからない。

現実を目の当たりにして、ようやく漠然とした不安に駆られた。

「どないしようと思ったとき、おじの『人間、何で生活をしているかが非常に大事なことである』という言葉を思い出したんです」

自分の軸を見つけて仕事にしなければ!そう思ったとき、脳裏をよぎったのがアメリカ留学。二十数年前に果たせなかった夢だった。

「これだ!と、胸が高鳴りました。夫が英語嫌いで22年間、英語から離れていたけれど、不思議と自信があったんです。留学して、英語で身を立てようと思ったんです」

まさに「やってみはったら」の決断だった。TOEFL試験のために神田の英語学校に通いながら、願書を取り寄せた。

「予算は800万円。結婚生活の間に貯めたへそくりです。4つの州立大学に願書を送り、最初に合格通知が来たのがコネチカット州立大学。縁を感じてここに決めました」

■ニューイングランドのお菓子作りを学んで。帰国後は“コスプレ”の料理教室が話題に

アメリカでの一人暮らしは想像以上にキツかった。

「ただ目の前にある大学卒業に全力を尽くすのみと悟りました。この経験は、紛れもなく私の人生の一大転機。苦しかったけれど、幸せとの縁結びはここから始まったと思っています」

そのころ、親しくなったのが文学部のアナ・チャーターズ教授だ。

「18~20歳の学生のなかで47歳の私が頑張っているのを見て、声をかけてくれはった。“うちへ遊びにいらっしゃい”と誘ってくださって、ポピーシードのケーキをちゃちゃっと作ってくれました。“おうちで作るケーキ、とても美味しいですね!”“簡単なのよ”このやりとりからすべてが始まりました」

寮を出て、教授の家の地下にあるキッチン付きの部屋に賃料を払って7カ月、お世話になった。そのころ教授は、こんな提案をする。

「ニューイングランドのお菓子を習って、日本で作ったら?アメリカ菓子だと美味しくなさそうだからニューイングランドがいいわ」

それから平野さんは3人のお菓子の先生から教えを受けた。

特に3番目に出会ったシャロル・ジーン先生には9カ月の集中講義を受け、アメリカンベーキングの基礎を徹底的に学んだ。

「シャロル先生の教えは“テクニックは見て、まねて、学びなさい”。私は、先生の手先、指先の力の入れ具合まで、想像力を駆使して盗み取ろうと必死でした。努力、努力の毎日が今まで感じたことがないほど私を充足させてくれました」

シャロル先生からケーキディプロマ(修了証書)を授与され、2年3カ月の留学を終え、帰国。シャロル先生はいまでは平野さんの親友だ。

帰国後は京都の実家のキッチンで、お菓子教室を開いた。

「特徴を出そうと、アメリカ開拓時代のコスチュームを着たんです」

それが京都新聞で紹介されると、2人しかいなかった生徒数が瞬く間に150人に増えた。

2000年、貯めておいた月謝と少しの借金で、教室と店舗を併設した「松之助」を京都にオープンする。「松之助」は、能装束織物の匠だった祖父の名前だ。

「そこそこ裕福な家庭に生まれて、私の仕事もお遊び程度に思う方がいたかもしれませんが、実家の援助はなく、必死でしたよ」

京都店が軌道に乗ると、次は東京進出だ。自ら教室のビラ配りをし、2004年、代官山店をオープン。

しばらく赤字続きだったが、テレビで取り上げられると一躍行列ができる店になった。

「50代はとにかく必死でした。がむしゃらに前に進むだけでした」

■「松之助」NY進出は失敗に終わったが、一回り以上年下の米国人男性と再婚

60代で憧れのNYを目指した。

就労ビザを取得し、苦労して店を開くための資格を取った。準備に1年近くを費やし、ようやく始めたNY店だったが、賃料が高く毎月赤字に。2年で撤退する。

「結果はともあれ、満足でした。辛酸もなめましたが、落ち込んでいたら自分の人生、暗くなるだけ」

NYに店を構えたころ、友人のガーデンパーティでウクライナ系アメリカ人と出会った。キーウ出身のイーゴ・キャプションさんだ。

最初はメールをやりとりするだけの友人で、あるとき「あなたの性格を一言で言ったら?」と質問すると「貧乏と痛みとかゆみは相当、我慢できる」と返ってきた。

「面白い表現しはる人やなぁと思いました。ものにこだわりがなく、海と雪山を見ていたら幸せな人。質素倹約を旨とし、10$のスニーカーで満足で、自然を愛し、好きな人とその日一日を大事に楽しく暮らしたい。そんな人です」

平野さんが体調を崩して、少し吐いたことがあった。彼はとっさに両手でそれを受けてくれた。

「弱みをさらけ出していい人がいるんだと感激しました」

NY店を畳んだころ、友人関係から一歩進んだ。

「1つ扉を閉めると、次の扉が開く。2つのことは同時には手に入らないということでしょうか」

60歳で人生はシナリオどおりに進まないと痛感し、何歳で何をしようと計画したり、年齢を数えることをやめていた。だから、イーゴさんが一回り以上年下だと知ったのは、かなり後のことだったが、イーゴさんも同じ考え方だった。

「年齢はジャストナンバー。ただの数字。それより相性が大事」

いつしか彼と共に歩くからこそ知り得る初めての世界が、より鮮明に輝いて見えた。

知り合って5年たった2017年2月に結婚。市役所の市書記事務局で、結婚許可証をもらい、再び出向いて結婚式を挙げ、結婚証明書をもらう。それがNYでの結婚だ。

「結婚証明書をもらいに行く日は、2人ともスーツ姿の正装で、朝一番に出かけました。受け付けナンバーが1で『幸先いいじゃない』と心が弾みましたね」

母の再婚に、息子は、

「よもや、相手が幸せにしてくれる、と思うなよ。自分が相手といることに幸せを感じるのなら、それ以上相手に望むなよ。学習してください。母上さま」

娘からは、

「楽しんで人生を送ってね。いまを大切にね」と、それぞれに思いがこもったエールが送られた。

「母が94歳で亡くなって、最近、母の言葉を時々思い出すようになりました。最初の結婚のとき『人には添うてみよ』と言われ、父と姑に従うだけの母のような人生は送りたくないと思いましたが、今なら母の真意がわかります。

添うとは従うことではなく、相手の辛さ、苦しみ、悲しみを感じ受け止めること。そう思えたのは夫の格別な気遣いに触れたからです。

幸せならそれで十分。イーゴと一緒にいて少しでもいい人間になれたらいいなと思います。この結婚は全うしないと、と思います」

60歳で年齢は数えないと決めた今の彼女の人柄は、シンプルながらも味わい深いアップルパイのよう。重層的であるのに軽やかで、一度会えばサクッと人を虜にしてしまう。

その生き方が作り出す味が、ファンを引き付けてやまないのだ。

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