助っ人Jリーガー・あの人は今〜1994年の得点王「オッツェ」に会いにブレーメンまで行ってきた

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助っ人Jリーガー・あの人は今〜1994年の得点王「オッツェ」に会いにブレーメンまで行ってきた

4月18日(木) 10:35

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あの人は今〜「オッツェ」インタビュー前編

フランク・オルデネビッツ(ドイツ/元ジェフユナイテッド市原)

往年のサッカーファンにとっては、フランク・オルデネビッツ──愛称「オッツェ」の名前は懐かしく響くのではないだろうか。

1993年に開幕したJリーグの初年度、セカンドシーズンからジェフユナイテッド市原でプレー。1994シーズンには30ゴールを挙げて得点王にも輝いた。わずか1シーズン半でドイツに帰国するも、1996年には再び来日してブランメル仙台(旧JFL)で1シーズンプレーした。

日本でのプレーは合計2シーズン半。ただ、短い時間ながら日本との縁を得たことから、現在はブンデスリーガのヴェルダー・ブレーメンで日本(とスカンジナビア)を担当するスカウトとして活躍している。

◆あの人は今「オッツェ」今昔フォトギャラリー>>

元ジェフ市原のオッツェは59歳になっていたphoto by Minegishi Shinji

元ジェフ市原のオッツェは59歳になっていたphoto by Minegishi Shinji



ジェフに加入する直前、オッツェはケルンでプレーしていた。そのケルン時代のチームメイトで、仲のよかったのが、愛称「リティ」ことピエール・リトバルスキーだ。ジェフでプレーしていたリトバルスキーから声がかかったことで、オッツェは日本行きを決めた。

「ある日、リティから電話がかかってきて『日本に一緒に来ないか?』って言われたんです。あの1本の電話から始まりました。

そして、僕は『すぐに行こう』と思いました。というのも、僕自身のキャリアは終盤にさしかかっていて、当時のケルンの監督とうまくいってなかった。なので、電話からわずか数日で日本に行くことを決めたんです」

当時28歳だったオッツェにとって、キャリアが終わる前に日本でプレーするという経験は、願ってもないチャンスだった。

日本行きを後押しした要素は、ふたつあった。ひとつは、誘いをかけてきたリティの存在。

「日本に行くことは、もちろん僕にとってはちょっとした冒険ではありましたよ。でも、リティが先に行っていたので、いろいろ話を聞いて問題はなさそうでした。妻と当時3歳だった息子と、3人で日本行きを決断しました」

【リティの電話から数週間後、フライトに飛び乗った】後押しとなったもうひとつの要素は、すでに日本との縁を持っていたからだ。

オッツェは1983年から1989年までプレーしていたブレーメンで、キリンカップ出場のために日本に遠征した経験があった。当時のチームメイトには奥寺康彦が在籍していたこともあり、彼の凱旋のための来日でもあった。

オッツェに日本の思い出を聞いたphoto by Minegishi Shinji

オッツェに日本の思い出を聞いたphoto by Minegishi Shinji



「1986年に奥寺がブレーメンから日本に帰るタイミングで(奥寺は1986年にブレーメンから古河電工に復帰)キリンカップに出場したのです。僕たちにとっては、奥寺を日本に送りがてら試合をした感じでしょうか。その時の日本滞在がすごく楽しかったんですよね。だからリティの誘いで日本行きのチャンスがあると聞いて、とてもうれしかったんです」

1986年のキリンカップは、ドイツのブレーメン、ブラジルのパルメイラス、日本代表とアルジェリア選抜の4チームで争われた。

奥寺のラストマッチとなった決勝戦で、ブレーメンは三浦知良を擁するパルメイラスと対戦。オッツェの2ゴールを含む4-2でブレーメンが勝利し、奥寺の花道を飾った。この時はまだ、のちにオッツェがJリーグで得点王になることはおろかプレーすることも、誰も知らなかったわけだ。

当時の日本を、オッツェは無邪気に楽しんだ。

「日本滞在の10日間、そのほとんどは東京で過ごしたんですけど、その時にお世話してくれた人とは、今でも友だちなんです。そういうピッチ外のことを含めて、いろいろと楽しかったんですよね」

この時のいい印象のおかげで、オッツェは前向きな気持ちで日本にやってきた。リティからの電話からわずか2〜3週間後、オッツェは日本行きのフライトに飛び乗った。

「電話のあと、リティから何枚か、紙が送られてきたんですよ。簡単なドイツ語と日本語が書かれていて、『これを飛行機のなかで勉強しろ』と。ミギ、ヒダリ、ウシロ......そういう簡単な言葉でしたけどね」

右も左もわからないまま......ではなくて、ミギとヒダリとその他いくつかの単語だけを覚えて、オッツェは日本に降り立った。

【日本の若い選手たちに伝える役割もあった】Jリーグは開幕初年度で、まさに「ここから始まっていく」という時期。加入するジェフも、決してビッグクラブではなかった。ドイツ1部のケルンやブレーメンを経て日本に来たオッツェにとって、環境の違いは新鮮だった。

「僕とリティは最初、ヒルトンホテルに住んでいました。そこからクルマで15分くらいのところにジェフの練習場がありましたね。でも、練習場はピッチが1面あっただけでした。ピッチの横に更衣室があって、そこで着替えましたね。クラブハウスのようなものもなかったです」

城彰二(左)とオッツェ(右)はジェフで一緒にプレーしたphoto by Getty Images

城彰二(左)とオッツェ(右)はジェフで一緒にプレーしたphoto by Getty Images



ジェフのスタジアムは当時、市原の臨海にあった。

「古いスタジアムでした。驚いたというか、印象的だったのは、試合時の観客の半数以上......たぶん60パーセントくらいが女性だったんですよね。彼女たちがサッカーのことをわかっていたのかどうか、僕にはわからなかったですね。もしかしたら、ちょっとしたイベントみたいな感じだったのかもしれません」

オッツェの生活は日々、新鮮な驚きにあふれていた。

「僕にとって、すべてが新しいことばかり。何にでも興味を持ちました。日本での日々は、ネガティブなサプライズではなかったですよ」

何よりオッツェは、外国人助っ人選手としての使命を肝に命じていた。

「Jリーグは始まったばかり。我々みたいに年齢のいった経験豊富な選手を連れてきて、リーグ全体を盛り上げようという機運がありました。僕たちにとっては、日本の若い選手たちに何かを伝える役割もあったと思います」

当時のヨーロッパで、Jリーグはどこまで知られていたのか。

「欧州国内で真剣にJリーグに興味を持っていた人は、あまりいなかったと思います。ドイツ人がプレーしているから報道はあったと思いますけど、まだ生まれたばかりのリーグでしたので」

リティの影響でオッツェがジェフに加入したように、ほかのチームも世界的なプレーヤーを集めようと躍起になっていた。彼らの知名度や集客力が獲得の理由のひとつだが、それ以上に世界の経験を若い日本人選手たちに伝えることが必要だったからだ。

また、助っ人としてやってくる外国人選手にとっても、日本での経験はキャリアにおいて見すごすことのできない価値を持つことにもなった。オッツェが現在ブレーメンで日本担当スカウトとして活躍しているのもこの時の経験がつながっているし、のちに日本代表監督をジーコが務めたのは、その最たる例と言えよう。

(中編につづく)

◆あの人は今「オッツェ」中編>>1年半で帰国したのは、家庭の事情だけじゃなかった

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【profile】

フランク・オルデネビッツ(オッツェ)

1965年3月25日生まれ、ドイツ・ドルフマルク出身。ブレーメン時代は奥寺康彦と一緒にプレーし、1987-88シーズンにはブンデスリーガ制覇に貢献した。1993年のセカンドステージよりジェフユナイテッド市原に加入し、1994シーズンは30ゴールを記録して得点王を獲得。翌年は家庭の事情でドイツに戻るも、1996年には旧JFLのブランメル仙台でもプレーして20ゴールをマークする。西ドイツ代表として2試合出場。ポジション=FW。身長180cm。

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