『青春ジャック』の当時を知るシネマスコーレ元従業員が語る、映画館をつくる人々の熱気と名古屋ミニシアターのこれから

『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』の舞台裏を知る元従業員が当時を語る!/[c]若松プロダクション

『青春ジャック』の当時を知るシネマスコーレ元従業員が語る、映画館をつくる人々の熱気と名古屋ミニシアターのこれから

4月1日(月) 21:30

『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』(公開中)の評判がめちゃくちゃいい。東京と名古屋、愛知県の江南市で行われた先行上映イベントはいずれも満席完売でとてつもない熱気に包まれ、SNSには批評家や映画関係者の絶賛コメントが連日アップされ、すごい盛り上がりを見せている。
【写真を見る】「これから、これから」が口癖の木全支配人の“名物”感を見事に演じる東出昌大

■若松監督に会うためにシネマスコーレを訪れた、当時高校生の井上監督

本作は、1983年2月に『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(08)、『キャタピラー』(10)などの若松孝二監督が立ち上げた名古屋のミニシアター「シネマスコーレ」の黎明期に、『戦争と一人の女』(12)の監督で、前作『止められるか、俺たちを』(18)、『福田村事件』(23)などの脚本で知られる井上淳一監督が迫ったもの。井浦新演じる、慣れない映画館運営に奔走する若松監督と、いまでは名物支配人になった東出昌大扮する木全純治との真実のドラマを、若松監督とシネマスコーレに当時“青春”をジャックされた井上監督の実話を絡めて描いた青春ムービーだが、当時の空気と熱気を感じさせながらも、決して懐古主義に浸ることなく、その息吹を今日に繋がる現在進行系のタッチで紡ぎだしているのが気持ちいい。

そこがあの時代を知る者の胸を熱くし、『劇場版シネマ狂想曲 名古屋映画館革命』(65)などでシネマスコーレの存在を知った若い映画ファンたちからの熱い視線も浴びる状況を作り出しているのかもしれない。

ただ、僕自身はちょっと複雑な、こそばゆい感覚が同時にあったのも否定できない。というのも、僕も当時あの場所に確かにいたからだ。最初は大学の映画研究会に所属するただの映画ファンとして、シネマスコーレに足を運ぶだけだった。それが83年か84年のある日、支配人の木全さんに誘われてだったか、自分から「やりたい」って言ったのかは覚えていないけれど(少なくとも田中俊介さんが演じた劇中の磯崎くんとは違い、隣に女子はいなかった)、バイトをすることになった。

あの時間は、かけがえのないものだ。バイトといっても、仕事は劇場に関する多岐に渡り、映写と映写前のアナウンスや消灯、パンフレットやお菓子などの販売、掃除はもちろん、フィルム上映が主体の当時はフィルムチェンジをしなくてもいいように5~6巻に分かれているフィルムを繋いで大きな銀盤に乗せる編集作業を任されることもあった。

僕が大学映研の後輩と担当した、金曜日のオールナイトは特に刺激的な時間だった。映画でも描かれているように、当時のシネマスコーレは月の3週はピンク映画を上映していて、ビルの上の階はすべて風俗店。営業マン風の通行人から上の店のシステムを聞かれることも日常茶飯事だったけれど、呼び込みのお兄さんと談笑したり、夜中の0時前後になると必ずお菓子を買いにやってくる客引きのおばちゃんとの会話も新鮮で、大人の社会を覗き見するようなその時間も決して嫌いではなかった。そんな濃~い日々を重ねていた日中のある日、突然やってきて、たまたま受付にいた僕に「若松孝二監督は今日来てますか?」と声をかけてきたのがまだ高校生だった井上監督だ。その時のことは、後から木全さんに聞いた「あいつ、監督と一緒に新幹線に乗って東京に行っちゃったよ(笑)」という言葉と共に鮮明に覚えている。

■おもしろいことに対する感性が人一倍敏感な木全支配人

僕の実体験が映画に反映されているのはそれぐらいだが、登場人物たちの言動やエピソードの数々には当時の自分がやっていたことやその頃のモヤモヤした思いが重なるところも多い。木全さんから「31日まである月の最終回は何をやってもいい」と言われて、「31 Movie Adventure」いうタイトルで、手塚眞監督『MOMENT』(81)や小中和哉監督の『地球に落ちてきたくま』(82)といった8ミリ映画の話題作を上映させてもらった時は純粋に嬉しかった。縁があって『夢みるように眠りたい』(86)の上映をお願いに行った時も、林海象監督は当時まったくの無名だったのに、木全さんは映画を観てすぐに「やろう!」と快諾してくれたものだ(『青春ジャック』では、木全さんが若松監督に林海象監督をはじめとした若い監督の才能を訴えるシーンが出てくるが、そういうやりとりが実際にあったのかどうかは僕は知らない)。

木全さんはとにかく早かった。「石井聰亙(現在は石井岳龍)監督の『半分人間 アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン』(85)をライブ用のPAを場内に持ち込んで大音響に上映したい。石井監督が8ミリフィルムで撮ったアナーキーやザ・スターリンのライブ映像と一緒に」と僕が言った時もおもしろがってくれたし、2人で菓子折りを持って周りの商店に挨拶に行ったのもいい思い出になっている。「イソガイくんはなんでも否定から入る」と注意されたこともよく覚えている。そんな慎重になり過ぎる僕と違って、おもしろいと思ったことは少々無謀でハードルが高くても、いつもの笑顔で素早くアタックするし、スタッフがおもしろがっていることは否定せずに限りなく自由にやらせてくれる。

そこが木全さんのスゴいところで、結果にも表れている。それこそ、『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』も井上監督から話を持ちかけられた木全さんが首を縦に振り、企画、プロデューサーで参加しなければ実現していなかったかもしれないが、なんでも楽しむそのスタンスは、木全さんを間近で見続けてきた副支配人の坪井篤史さんにもちゃんと受け継がれているから頼もしい。

■41年の歴史に幕を下ろした名古屋シネマテーク…そして「ナゴヤキネマ・ノイ」の開館へ

当たり前のことだか、映画は、作り手のメッセージやその人が作る映画の面白さを伝えたいと強く思う配給会社や映画館の人間がいなければ、観客に届かない。特にミニマムな映画や観客を選ぶ、言い換えれば既存のどの映画にも似ていない個性的な映画は、それらを上映することの多いミニシアターの館主やスタッフによって支えられていると言ってもいいだろう。

それだけに、名古屋に新しいミニシアター「ナゴヤキネマ・ノイ」が3月16日に誕生するというのは嬉しいニュースだった。この新館は昨年7月28日に惜しまれつつ41年の幕を下ろした名古屋シネマテークの閉館時の支配人、永吉直之さんとスタッフだった仁藤由美さん、2019年に急逝した元支配人、平野勇治のパートナーである安住恭子さんが立ち上げたもの。劇場名の「ノイ」はジャン=リュック・コダールの『新ドイツ零年』(91)からインスピレーションを得たズバリ「新しい」という意味のドイツ語だが、3人が新しいミニシアターの設立に相当な覚悟と決意で臨んだのは想像に難くない。

「やってほしい!」と旗を振るのは簡単だ。だが、全国のミニシアターはどこも経営に苦しんでいるし、コロナ禍には名古屋シネマテークと同じように閉館を余儀なくされた劇場はほかにもあった。それでも開館に踏み切ったのは、名古屋シネマテークの閉館を惜しむ声が多く寄せられ、同館のあったビルの大家さんからの「新しい映画館をやるんだったら、場所はそのまま残しておくから」という言葉や地域住民の後押しがあったから。

■“映画”という文化を途絶えさせないという強い想い

クラウドファンディングで集まった想像を上回る金額で可能性が増したことも引き金になった。だが、最終的には“名古屋から映画という文化の灯を消してはいけない”という強い想いを持った3人が、平野元支配人の遺志を引き継ぐ形で実現に向けて舵を切ったという見方をするのが正しいような気がする。そう思うのは、僕が名古屋シネマテークのスタッフでもあったことが大きく関係している。それは僕の誇りでもある。大袈裟でも何でもなく、シネマスコーレとともに、名古屋シネマテークでの出会いや経験、学びがなければ今日の自分は間違いなくいないからだ。

ゴダールやロベール・ブレッソン、ダニエル・シュミットやデレク・ジャーマン、ラース・フォン・トリアーやデヴィッド・クローネンバーグ、マルコ・ベロッキオやアキ・カウリスマキ、アッバス・キアロスタミの映画を初めて観たのも、小川紳介や川島雄三を知ったのも名古屋シネマテーク。観客として通っていたときはちょっと背伸びをした感覚にもなったし、目から鱗の連続だったが、スタッフになってから出会った原一男監督の『ゆきゆきて、神軍』(87)や森達也監督の『A』(98)の衝撃も忘れられない。インド映画の『ムトゥ 踊るマハラジャ』(95)が連日超満員で、場内がサウナのような状態になったのにお客さんがみんな笑顔で出てきたのも懐かしい思い出だ。

■未来に目を向け、これからも特別な体験を人々に届けていく名古屋のミニシアター

同館では、そんな少々尖ったラインナップとともに、当時の支配人、平野さんの映画と向き合う真摯な姿勢に目をみはった。その“真摯な”というところを言葉で説明するのは難しいし、それはすべてのミニシアターのスタッフがやっていることと言われればそれまでだが、平野さんはそのすべての作業を極めて細やかに、とことんまでやっていた。多くの人に観てもらいたいと思う作品を選ぶ作業には特に慎重だったような気がするし、遅くまで劇場に残り、ボロボロの状態でやってきたフィルムの修繕をしている姿を何度も目撃した。上映を請け負えない映画の配給会社の担当者に「なぜ、上映できないのか」という理由を丁寧に書いてFAXしていたのも覚えている。

繰り返しになるが、そんな平野さんの精神を、かつて彼とともに働いた「ナゴヤキネマ・ノイ」のチームが間違いなく受け継いでいる。オープニング作品のラインナップを見ればそれは一目瞭然だろう。年間1万台の救急車を受け入れる名古屋掖済会病院のER(救命救急センター)に密着した東海テレビ制作のドキュメンタリー『その鼓動に耳をあてよ』(23)、ゴダールやアキ・カウリスマキらに影響を与えたデンマークの先鋭的な映画監督カール・テオドア・ドライヤーの劇場初公開作『ミカエル』(24)を含む特集上映、ハンガリーの鬼才タル・ベーラの傑作『ヴェルクマイスター・ハーモニー』(00)などなど、どれも圧倒的な強度を持った独自の色を放つ作品ばかり。

若い映画ファンには馴染みのないタイトルや初めて目にする監督名ばかりかも知れないが、僕が昔そうだったように、新しい映画と出会い、知らなかった世界への扉を開くことができるのがミニシアターを訪れる醍醐味。それができる場所を提供するというスタンスが、名古屋シネマテークのDNAを継承するラインナップに強く打ち出されているのだ。開館にあたって場内の椅子のスポンジやカバーを変え、ロビーの椅子も一新。近隣のライブハウス「Tokuzo」のチームにメンテナンスをしてもらって音響も格段によくなったようだし、オンラインでのチケット販売も導入した。ただ、道のりが険しい現状は変わらないし、以前のような運営では同じことになってしまうので、長く継続していくことを第一に考え、無理をしない範囲でできることを模索しながらやっていくという。

「クラウドファンディングに協力していただいて開館できたので、その人たちの映画館でもあるし、観に来てくれる人たちの映画館でもある。なので、みんなの映画館、私たちの映画館になっていけるといいなと思っているんです」と永吉直之支配人は語る。

シネマスコーレとナゴヤキネマ・ノイ。このふたつのミニシアターは名古屋の貴重な財産だし、趣の違う2館で未知の映画体験ができる地元の人たちは幸せだ。訪れたことがある人はもちろん、この記事で初めて知った人もぜひ一度足を運んでみてほしい。

文/イソガイマサト


【関連記事】
井浦新、故・若松孝二監督を演じるのは「厄介な作業。モノマネしまくった」
若松プロ再始動『止められるか、俺たちを』で、活気あふれる日本映画が蘇る!
満席続きで大混乱!?“ミニシアター”が激アツだった2018年を振り返る!
『つんドル』の“癒し系おっさん”から『福田村事件』『アンダーカレント』まで、井浦新の活躍に迫る
『麻雀放浪記2020』の白石和彌監督が語る、コンプライアンス問題と師匠・若松孝二
【追悼】反骨の才人・若松孝二監督「映画はずっと生き続けることができる」
MOVIE WALKER PRESS

エンタメ 新着ニュース

合わせて読みたい記事

編集部のおすすめ記事

エンタメ アクセスランキング

急上昇ランキング

注目トピックス

Ameba News

注目の芸能人ブログ