上杉謙信は本当に敵に塩を送る義の武将なのか?「あの歴史偉人“裏の素顔”」

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上杉謙信は本当に敵に塩を送る義の武将なのか?「あの歴史偉人“裏の素顔”」

3月13日(水) 7:00

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「義」の武将といわれる 上杉謙信 は、敵に塩を送ったことで知られる。

永禄一〇年(1567年)ごろ、甲斐の 武田信玄 が駿河の今川氏真から塩留めにあった。『上杉家御年譜』によると、謙信は、海のない甲斐国の「万民の辛酸尋常にあるべからず。手段もっと浅薄なり」と氏真のその政策を批判し、逆に家臣を召して、敵の信玄へ「塩を送れ」と命じた。結果、敵国の民衆は謙信を「邪道なき大将」と称し奉ったという。

しかし、『上杉家御年譜』は、米沢藩(上杉家)の藩医で儒学者でもある人物が江戸時代の天和三年(1683年)に編纂したとされ、事件のあった永禄一〇年から一一〇余年たってから書かれた史料。当時は江戸幕府の五代将軍徳川綱吉の治世で戦国の殺伐とした気風は姿を消し、儒教による道徳が重んじられていた。

実際には、氏真から塩留めを求められていたが、謙信は、当時の領国である越後から信州を経て甲斐に至る流通ルートで塩留めを行わなかったに過ぎず、「敵に塩を送った」という美談にすり替えられたのだ。

その謙信は下剋上で事実上、越後の守護となった長尾為景の四男。家督は兄・晴景が継いだものの、凡愚ゆえに越後の国人衆から見放され、謙信はその国人衆に推され、兄から長尾家当主と春日山城(新潟県上越市)の城主の座を譲られる形となった。

下剋上のならいに従えば、このとき兄・晴景を放逐してもよかったが、謙信は兄の養子として家督を継ぐという穏便策で落ちつかせた。

この温情ある措置が評判を呼び、天文二一年(1552年)には、 北条氏康 に関東を追われた上杉憲政(関東管領)が越後に亡命してきた。

その8年後、謙信が関東管領を放逐した氏康を懲らしめるための「義軍」を挙げると、関東の諸将はその威風になびき、11万を号す大軍になったと軍記物で語られる。その謙信の大軍は、氏康の居城・小田原を囲んだが、天下の名城は簡単に落ちず、鶴岡八幡宮(鎌倉市)の社前で憲政から上杉家の家督と関東管領職を譲られ、越後へ帰ったとされる。

これも彼を「義将」とする理由だ。しかし、関東を侵略者(北条)から守るための「正義」の軍勢であるはずのところ、上杉勢が相模国で村を焼き払い、逃げ惑う者の衣服まではイラスト/萩山明日香ぎ取ったという乱暴狼藉ぶりを記した史料も現存する。

こののち18回を数える関東出兵のうちの8回は、秋および冬に出兵し、関東で越冬している。二毛作のできない越後の兵たちは、ちょうど食糧不足に直面する時期に関東で越冬していることになる。越後より豊かな関東への出兵には、越冬用に蓄えた関東の収穫物を収奪する狙いがあったという説もある。その真偽は不明だが、上杉軍が決して「正義の軍」でなかったのは確かだろう。

跡部蛮 (あとべ・ばん)歴史研究家・博士(文学)。1960 年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『超新説で読みとく信長・秀吉・家康の真実』(ビジネス社)。


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