王貞治、野村克也、広岡達朗、原辰徳らを支えた「名将の懐刀」尾花高夫が語るそれぞれの流儀

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王貞治、野村克也、広岡達朗、原辰徳らを支えた「名将の懐刀」尾花高夫が語るそれぞれの流儀

3月7日(木) 17:05

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尾花高夫インタビュー(前編)

尾花高夫氏は投手コーチとして、広岡達朗GM(ロッテ)、野村克也監督(ヤクルト)、王貞治監督(ダイエー)、原辰徳監督といった名将たちの懐刀の役割の担い、チームを陰で支えた。一軍投手コーチを通算17年経験し、そのうち優勝7回、2位6回と好成績を残した。では、どのようにして投手陣を整備、再建し、チームを勝利へと導いたのか。

97年から2年間、野村克也監督(写真中央)のもとヤクルトの投手コーチを務めた尾花高夫氏photo by Sankei Visual

97年から2年間、野村克也監督(写真中央)のもとヤクルトの投手コーチを務めた尾花高夫氏photo by Sankei Visual





【指導者の礎はロッテ時代】 ──尾花さんは右ヒザ半月板を痛め、91年シーズンを最後に現役引退。そして95年にロッテのコーチに就任しました。

尾花 プロ入団時の監督であった広岡達朗さんから「ロッテでGMをやる。監督はボビー・バレンタインだ。手伝ってくれるか」と、直々に電話をいただきました。毎試合後、野手の責任者である江藤省三さんと、投手の責任者である私がGM室に呼ばれ、指導者としてのアドバイスを受けました。

「あの投手が崩れる前兆が出ていた」など、投手の交代についての指導が多かったですね。広岡GMは先発ローテーション、勝ちパターンのリリーフ投手を重視する野球でした。投手陣が不調に陥ったら、「自分も考えてくるから、明日までに尾花も考えてきなさい」と、一緒に改善策を考えてくれる方でした。常に「それは選手のためになるのか」というスタンスでした。

──広岡さんは「管理野球」「トップダウン」のイメージがありますが、そうではなかったのですね。

尾花 私が「それは無理じゃないですか」と言うと、「無理ではなく、尾花ならできるだろう。やってみなさい」と、発展的に物事を持っていってくれました。4月は最下位だったのですが、5月からは投手交代や起用について全面的に任されました。それは監督の仕事ではないかと思ったのですが、メジャーではヘッドコーチの意見を監督が重視するようで、私は江尻亮さんに進言する役割でした。

──チームは最終的に2位に浮上し、10年ぶりAクラス入りを果たしました。

尾花 先発では伊良部秀輝、小宮山悟、エリック・ヒルマン、園川一美、リリーフでは河本育之、成本年秀らが中心となって頑張ってくれました。この経験がのちの野村克也監督のヤクルト時代、王貞治監督のダイエー(現・ソフトバンク)時代、原辰徳監督の巨人時代に役立ったわけです。

【四球を減らせば防御率は向上する】 ──1997年から2年間、野村監督のもとコーチを務められますが、尾花さんの現役最後の2年間の監督は野村さんでした。

尾花 野村監督には本当に勉強させてもらいました。野村さんの評論家時代に週刊誌で連載していたコラムも欠かさず読んでいたので、90年に監督に就任すると質問攻めにしました(笑)。97年にコーチとして呼んでいただき、前年4位のチームがいきなり優勝できました。野村監督は「投手力を含めた守備力で勝つ野球。1対0で勝つ野球」を目指されていました。

──尾花さんが投手コーチに就任すると、どのチームも1年目にチーム防御率がよくなり、順位も上がっています。何を改善するのですか。

尾花 まず、失点の要因となる"四球"と"本塁打"を減らすことです。四球、安打、本塁打のサンドウィッチが一番よくありません。単純に四球を減らせば、失点は絶対に減少します。ボールが先行するとストライクを投げないといけないので、狙い球が絞られて打たれる確率が高くなります。最初から自分のペースで勝負できれば、ボール球を振らせることができるし、何でも投げられるわけです。

──97年は、シーズン前の予想を覆して優勝しました。

尾花 このシーズンは、田畑一也が15勝と奮闘しました。田畑はコントロールがいいのはもちろんですが、大きなカーブとスライダーが武器でした。さらにクイックが速くて、田畑と古田敦也のバッテリーは一度も盗塁を許したことがないんじゃないかな。石井一久や吉井理人らの先発投手のほか、目立ちませんでしたが野中徹博、廣田浩章、加藤博人の存在が大きかったですね。とくに野中と廣田のように、他チームを戦力外となった投手を再生し、適材適所で起用することができました。

──野村ヤクルト時代、印象に残っていることは何ですか?

尾花 97年に優勝を争った横浜との天王山の2連戦ですね。初戦、石井一久がノーヒット・ノーランを達成したのですが、3回終了時点で「今日、ノーヒット・ノーランをやれるかもしれません」と言ったのに、8回終了時点で「やっぱり代えてください」と。「なに考えとんじゃ!」って怒りましたよ。

それで翌日、いい流れのまま連勝したい。先発・田畑のあと、高津、伊藤智仁で2イニングずつを予定したのですが、田畑が早い回に打たれてしまって......。野村監督が「高津を4回からいけるように準備してあるか?」って言われたのですが、さすがに「4回ですか?」と。山本樹を挟んで、何とか6回の高津までつなぎました。ヤクルトコーチ時代は、この2連戦が深く印象に残っています。

【ダイエー初優勝、巨人3連覇に貢献】 ──1999年から2005年まで王貞治監督が指揮を執るダイエーで投手コーチを務めます。99年は投手陣を整備して、いきなり優勝に導きました。

尾花 王監督は「打ち勝つ野球」でした。99年は王監督の5年契約の最終年だったので、貢献できてよかったです。球界再編騒動は2004年ですが、当時から1リーグ構想がささやかされていて、ダイエーが優勝しなくては消滅する球団に含まれるかもしれないと。だから、何がなんでも99年は優勝しなくてはいけないと、強い覚悟で臨みました。王監督とはいつも「投手交代のシミュレーション」を打合せしていました。99年からダイエーは2連覇し、2000年の日本シリーズは「ONミレニアム対決」になったのは本望でした。

──ちなみに、王監督とすりあわせた「投手交代のシミュレーション」は具体的にどんな感じで行なわれていたのですか。

尾花 99年の開幕戦から毎試合やっていました。「王監督、今日の試合はどんなスコアで勝つことを想定していますか?」と。たとえば「西武の先発は西口(文也)で、こちらは西村龍次です。想定スコアによって、誰と誰を投げさせるのか構想を練らなくてはいけません」と言うわけです。それによって、別の投手を休ませられますからね。

──2006年から09年まで、原辰徳監督の巨人に移籍します。

尾花 原監督には「投手は3点に抑えますので、4点とってください」と、よくお願いしていました。プロ野球は勝率で争いますが、「3失点以下の試合」でしかなかなか貯金はつくれません。「4失点以上の試合」が多いと、借金になります。だから、3失点以内の試合を90試合つくれば、約30個の貯金ができて、優勝の可能性がグッと高くなります。

──当時のセ・リーグは、2003年から06年まで阪神と中日が交互に優勝するなど「竜虎の時代」と呼ばれていました。

尾花 巨人の投手コーチ1年目の順位は4位でしたが、チーム防御率は前年の4.80から3.65まで向上しました。07年からは3.58(リーグ2位)、3.37(リーグ2位)、2.94(リーグ1位)で、リーグ3連覇を達成しました。内海哲也や高橋尚成らの先発陣はもちろん、抑えの上原浩治、マーク・クルーン、さらに「風神雷神」の異名をとった越智大祐と山口鉄也のセットアッパーコンビが頑張ってくれました。

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尾花高夫(おばな・たかお) /1957年8月7日、和歌山県生まれ。PL学園から新日鉄堺を経て、77年のドラフトでヤクルトから4位指名を受け入団。83年に11勝をマークすると、84年は自己最多の14勝を挙げた。選手生活の晩年は半月板損傷などケガに悩まされ、91年に現役を引退。引退後は投手コーチ、監督としてさまざまな球団を渡り歩き、多くの一流投手を育てた。23年2月から鹿島学園高(茨城)のコーチとして指導を行なっている。

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