野村克也氏が2020年2月11日に逝去してから、4年の歳月が流れた。今も球界には野村氏の薫陶を受けた野球人は多い。"野村チルドレン"のひとりとしてヤクルト、楽天でもともに戦った飯田哲也氏に当時の思い出を語ってもらい、あらためて名将が残した功績を振り返ってみたい。
ヤクルト、楽天で野村克也氏(写真左)のもとでプレーした飯田哲也氏photo by Sankei Visual
【ヤクルト時代と楽天時代の違い】
──早いもので、野村さんが亡くなられてから4年が経ちました。"野村チルドレン"の代表格でもある飯田さんが、あらためて思うことは何でしょうか。
飯田
まず、野球がものすごく好きな方でした。ヤクルト時代、野村監督に怒られる選手は決まっていたような気がします。広澤(克実)さん、池山(隆寛)さんのような"主役"には直接怒らず、テレビや新聞を経由して伝えていました。面と向かって怒られるのは、自分のような"脇役"や、捕手の古田(敦也)さんでした。
──それはどういう意味合いがあったと思いますか。
飯田
広澤さん、池山さんには、どういうことに対して注意されているのかを報道を通して考えてごらんと。我々には「"ノムラ野球"に対応、遂行できなければ試合に出られないよ」と教えてくれていたのだと理解していました。私の場合は「とにかく持ち味である足と守備で、自分の役割を果たしなさい。脇役に徹しなさい」と、よく言われました。
──巷間言われる「無視、称賛、非難」とは少し違いますね。二軍選手は無視、発展途上の選手は褒めてやる気を出させる。一流選手は慢心しないように、非難して高みを目指させる。
飯田
ヤクルト時代は、褒められたことが一度もありませんでした。自分以外にも褒められている選手をほとんど見ませんでした。怖いイメージしかなかったです。だだ、私が2005年に新設された楽天に移籍し、翌年から野村さんが監督に就任しました。本塁打を打った選手をベンチ前で出迎える姿を見て、「変わったなぁ」と驚いたものです。
──かつて野村さんから「ワシが見てきた外野手のなかで、飯田がナンバーワンだ」という賛辞を聞いたことがあります。
飯田
初めて聞きました。うれしいですね。私としては、期待に応えようと必死でした。とにかくヤクルトは若い選手が多かったので、「プロとして、やって当たり前だ」と気を引き締めていたのでしょうね。楽天は何球団かの選手が集まったチームで、ベテラン選手も多く、それなりに気を遣ってくれていたのだと思います。
【野球人生を変えたコンバート】
──いまさらながら、捕手から外野へのコンバートの経緯は何だったのですか。
飯田
89年にセカンドを守って新人王を受賞した笘篠賢治さんが90年は不調で、私が代打に出て広島の川口和久投手からホームランを打ったんです。それでそのままセカンドを守り、29盗塁をマークしてレギュラーをつかみました。
──コンバートするにあたり「キャッチャーミットを2個4万円で飯田から買い取った。そのお金でグラブを買え」と野村さんが言ったとか?
飯田
それはマスコミ用のリップサービスですね。だって、私は4万円をいただいていませんから(笑)。
──その後、センターに移ったのはどうしてですか。
飯田
91年に、ナ・リーグ二塁手部門でシルバー・スラッガー賞を受賞した実績のあるジョニー・レイが入団。彼が外野を守ることを拒否したので、私がセンターにまわりました。その91年から7年連続してゴールデングラブ賞を獲ることができました。90年に古田さんが入団し、91年にレイが二塁に固執したことが、私にとっては幸いしましたね。
──飯田さんは高校時代、捕手として甲子園に出場するなど大活躍しました。ポジションへのこだわりはなかったのですか。
飯田
捕手はチーム事情で守っていただけで、それまでは内野、外野を守っていましたから。それにしても当時のプロ野球はコンバートがほとんどなく、このポジションで頑張ってダメだったら終わりという選手がほとんどでした。でも、野村監督は「どうにかして選手を生かしてあげよう」という考えで、野球を見る目、慧眼は傑出していました。
──ほかにコンバートして成功した選手はいましたか。
野村
髙津(臣吾)くんもそうです。もともと先発でしたが、抑えに転向して一時代を築きました。当時のストッパーと言えば、与田剛さんや大野豊さんといった150キロ級の速球投手がほとんどで、サイドハンドの技巧派のストッパーなど、なかなか思いつきません。
【講演会のようだった野村ミーティング】
──ヤクルト時代の野村監督といえば、ミーティングも印象深いです。野村監督はよく「人を遺す」ということを言っておられました。
飯田
野村さんがヤクルトの監督に就任した90年のユマキャンプ初日のミーティングは衝撃的でしたね。「自分はこういう野球をしていくよ」という野球の方向性の話ではありませんでした。「人間とは?」「組織とは?」といったことから、「プロ野球選手を引退してからのほうが人生は長い。プロ野球選手である前に一社会人であれ」という話まで、まさに人生論に近かったですね。それによっての人間形成が、「人を遺す」ことにつながっていたのだと思います。
──故事成語がたくさん出てきたと聞きました。
飯田
一発目は、孔子の論語のなかから「耳順」でしたね。四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順(したが)う。六十歳になると、修養が進んで聞いたことを素直に理解できるようになるということらしいです。
──"野村ミーティング"におけることを記した『野村ノート』は有名です。
飯田
キャンプ後半から徐々に野球のセオリーになっていくのですが、それを記したノートは今でも私の財産です。野村さんはとにかく話がうまい。毎日、講演会を聞いているようなイメージでした。
──普段はどうだったのですか?
飯田
私服に着替えても、たとえば選手の結婚式のスピーチなど、それはもうすばらしいですよ。とにかく"お話し好きのおっちゃん"でしたね(笑)。
──球春到来。キャンプも始まりました。
飯田
ご存命なら、今年数えで90歳の「卒寿」だったんですね。"野村チルドレン"である髙津くんがヤクルト、吉井(理人)さんがロッテ、新庄(剛志)くんが日本ハムで監督を務めています。天国からプロ野球を見守りながら、得意の"ボヤき"を発していると思います(笑)。
飯田哲也(いいだ・てつや)
/1968年5月18日、東京都生まれ。拓大紅陵高3年時に春夏連続して甲子園に出場し、86年ドラフト4位でヤクルトに入団。捕手として入団するも、野村克也監督に俊足、強肩を買われ外野手に転向。91年から97年まで7年連続ゴールデン・グラブ賞を獲得し、ヤクルト黄金時代の名手としてチームを支えた。05年に楽天に移籍し、翌年現役を引退。引退後はヤクルト、ソフトバンクでコーチを務め、20年より解説者として活躍
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