「だったら選ぶなよ」バルセロナ五輪でリレー代表に選出されるも本番で走れず大森盛一は納得できず「予選落ちすればいい、と思っていた」

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「だったら選ぶなよ」バルセロナ五輪でリレー代表に選出されるも本番で走れず大森盛一は納得できず「予選落ちすればいい、と思っていた」

12月2日(土) 10:00

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5人目のリレーメンバーが

見ていた景色大森盛一 編(前編)

陸上競技のトラックで今や個人種目をしのぐ人気となったリレー競技。4人がバトンをつないでチームとして戦う姿は見る人々を熱くさせる。実際にレースを走るのは4人だが、補欠も含め5~6人がリレー代表として選出され、当日までメンバーは確定しないことが多い。その日の戦術やコンディションによって4人が選ばれ、予選、決勝でメンバーが変わることもある。走れなかった5人目はどんな気持ちでレースを見守り、何を思っていたのか――。

走ることができなかった1992年バルセロナ五輪を振り返った大森盛一photo by Nakamura Hiroyuki

走ることができなかった1992年バルセロナ五輪を振り返った大森盛一photo by Nakamura Hiroyuki



「1995年の世界選手権も、日本選手権での400mで3位に入っているのに、本番でのリレーの選手に選ばれたのは2位までで、僕はダメで。本当に不遇でした」



こう語るのは、大森盛一。大学2年生で迎えた1992年バルセロナ五輪で、4×400mリレー要員として代表に選出されながらも、伊東浩司(富士通)とともに一度も走ることは叶わなかった。



◇◇◇



大森盛一(日本大学)の経歴を振り返れば、大学1年でマイルリレーの1991年世界選手権代表になって以降、バルセロナ五輪を含め、世界大会などで日本代表に選出されながらも、1994年アジア大会まで4大会連続でマイルリレーを走ることができなかった。



当時、日本のトップにいた高野進(東海大)が400mで日本記録(44秒78)を出して優勝した1991年日本選手権で、大森は自己新記録(46秒63)の5位(日本人4位)で世界陸上代表に選ばれた。しかし、その年は世界陸上が東京開催だったこともあり、「おまけで選ばれた」という感覚しかなかったという。



「とりあえず着順に入ったから選ばれただけで、メンバーを見ても高野さんがいて渡辺高博さん、小中富公一さん、苅部俊二さんもいて......、僕が走る場所はないじゃないですか。だから『これはしょうがない、ついていくだけだ』と思っていました。



当時は高野さんとマイルリレーはセットみたいな感じで、チームとして狙っていたのは総合力で入賞というところでした。この頃はみんな4×100mリレーよりもマイルリレーのほうが入賞に近いと思っていたんですよね」



しかし、そんな期待感のあるチームでも結果は予選敗退と世界の壁は高かった。



そして翌年は7月から始まるバルセロナ五輪に向けて、日本選手権の400mで4位に入り、マイルリレーの代表に再び選ばれた。「今度こそ日本代表としてマイルリレーに出られる」と思っていた大森の思いとは裏腹に本番で選ばれたのは、またしても違うメンバーだった。



「五輪の予選当日のウォーミングアップの前にメンバーが発表されて、なぜ自分が外されるのかわかりませんでした。しかも、メンバーに入ったのは400mハードルの斎藤嘉彦さんで......。持ちタイムを考えても『自分が斎藤さんより遅いわけはない』という気持ちも正直ありました。やっぱり、『現地まで行って走らないで帰るのはないだろう』という悔しい気持ちと、『だったら選ぶなよ』という怒りに近い気持ちでした」

五輪期間中は伊東と同部屋だったこともあり、いつも一緒に行動していた。



「伊東さん自身も走れないだろうと言っていました。僕もギリギリのラインにいたのと、年齢が一番下だったから話しやすかったんだと思います。メンバー発表が終わって、走る選手がアップを始めるタイミングで、伊東さんに『ふたりでどこかに行こう』と言われ、スタンドの選手席に行って競技が終わるまで見ていました。そこで、マイルリレーが予選で敗退するのを見て、『ほら、ダメじゃん』と言って帰りました。その時は正直、『予選落ちすればいい』と思っていましたし、応援する気はさらさらなかったのを覚えています」



その一方で「地元の人たちに申し訳ない」という思いが強かったと振り返る。やはり五輪で日本代表に選ばれると他の大会とは状況が違っていたのだ。



「やっぱり五輪と世界陸上の違いってそこなんですよね。田舎になればなるほど、五輪と言うだけでそれこそ県を挙げて応援してくれる。僕は富山県出身だけど、代表に決まったら『とりあえず帰って来い』と言われて、帰ると高校時代の先生に連れられて、市の教育委員会や、県の教育委員会、県庁を回って挨拶をするというのが通例でした。



そこまで応援してもらって、いざ五輪に行ったら走らないで帰ってくると地元に顔向けできないんです。田舎でポツンと、ひとりだけ出た五輪選手が活躍もしないで帰ってくれば、地元の人たちはガッカリしますから。理由もわからないまま走れずに日本に帰るというのは、親どころか『地元の人たちに申し訳ない』という気持ちでいっぱいでした」

【バルセロナ五輪を走れなかったから見えたこと】納得できないメンバー選考だったが、のちに「こういうことか」と気がついたこともあった。当時の大森はまだ大学2年で練習の強度が高くなく、ほかの代表選手に練習で負けることが多かった。



「全員で練習しようとなると、やっぱり負けてしまう。一番若いし、体力もないし、まだ経験もないとなると、(コーチの)僕の印象は悪くなるので使いづらくなったのだろうな、というのはありました。『練習で負けないようにしなければ』という思いはあったけど、当時の僕は試合で"一発の力"を出す能力はあったけど、練習で常に勝つのは厳しいものがありました」



五輪前から2カ月間すごしたヨーロッパ合宿で、日本にいる時の自分の練習ができなかったことも影響した。チームとして行動するため、担当する宮川千秋コーチが練習メニューをすべて決めていたからだ。



「宮川先生は長い距離を走らせるタイプで、僕にはその練習が合わなかったんです。スピード型なのでスピードで対抗する練習なら勝てたんですが、長い距離を走るとなると他の選手に勝てない。コーチの指導方針と合わないというところも、使われなかったひとつの理由かなと思います」



それでも、持ちタイムは5人中4番目で、バルセロナ入りをしてからも絶対に走れると信じて、選ばれればちゃんと走れる準備はできていた。



「仕方のないことですが、代表になると普段は僕を見ていない人が評価するので、これがいい状態なのか悪い状態なのかとか、パッと見ただけではわからないじゃないですか。



後々聞いたのは、宮川先生のなかで僕は後半失速するというイメージが強かったそうです。でも僕は確実に前半型で、リードを取って極力失速しないようにして逃げきるのが僕の走りでしたし、それを認めてくれないのならどうしようもなかったんですよね」



それでも大森は、悔しい思いに囚われるだけでなく、ここからどうすれば五輪で走ることができるのかと考えを切り替えた。



「宮川先生がコーチでいる限りは、練習で負けるところを見せたら終わりだと思いました。その経験があったから、1996年のアトランタ五輪では走ることができたんです。そう考えれば、バルセロナで外されたことは、よかったなと思っています」



後編:練習でも「一度でも負けてはいけない」と考えていた>>

Profile

大森盛一(おおもり しげかず)

1972年7月9日生まれ。富山県出身。

中学時代から陸上を始め、日本大学を経て、ミズノに所属。400mを専門として、大学時代に日本代表に選出され、アトランタ五輪ではマイルリレーをアンカーで走り、日本勢64年ぶり5位入賞に貢献した。2000年の現役引退後は、様々な職種を経験し、一度は陸上界から離れたものの、2008年に陸上クラブ「アスリートフォレストトラッククラブ(A F T C)」を立ち上げた。現在は自身の経験を生かし、指導者として活動している。

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