歴史からみるセルフケアの「政治性」/第2回 やさしい生活革命――セルフケア・セルフラブの始め方

歴史からみるセルフケアの「政治性」/第2回 やさしい生活革命――セルフケア・セルフラブの始め方

11月8日(水) 17:00

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「カルチャー ×アイデンティティ×社会」をテーマに執筆し、デビュー作『世界と私のA to Z』が増刷を重ね、新刊『#Z世代的価値観』も好調の、カリフォルニア出身&在住ライター・竹田ダニエルさんの新連載がついにOHTABOOKSTANDに登場。いま米国のZ世代が過酷な現代社会を生き抜く「抵抗運動」として注目され、日本にも広がりつつある新しい価値観「セルフケア・セルフラブ」について語ります。本当に「自分を愛する」とはいったいどういうことなのでしょうか?一緒に考えていきましょう。

資本主義的なセルフケアの問題点

資本主義的な「セルフケア」の概念の問題点は、あまりにも「個人」に焦点を当てすぎていることだ。”You can’t self love yourself out of oppression (いくらセルフケアを実践しても、抑圧から抜け出すことはできない)”というフレーズがある。たくさんの制度的差別や抑圧等によってトラウマを受けてきた人にとって、セルフケアは骨の奥深くまで食い込んだ傷口にせいぜい絆創膏を貼るような処置に過ぎない。昨今の風潮に見受けられる「セルフケアで全ての問題を自己解決しよう」というナラティブは、資本主義社会に蔓延る個人主義は常に、抑圧される側に様々な「解放」の責任を押し付ける。

連載第1回でも強調した通り、「自分の機嫌は自分で取る」というフレーズが世間的に美化されすぎると、自分の「機嫌」を損ねる要因になっている社会問題に抵抗を示したり、悩みや苦痛を口にすることで抑圧されている人々同士で連帯をすることは「未熟な大人」が取る行為だとみなされてしまう。一方で、そのような既存の問題には「忍耐」と「我慢」をもって耐え抜き、政治の不正や制度的差別に対しての不満は示さず、「常にご機嫌」な人になりように自己コントロールをすることこそが、「立派な大人」だと評価される。そしてその手段として持ち上げられるのが、「ご褒美」や「ご自愛」といった名称で謳われる、「消費」という形での「セルフケア」だ。

セルフケアは「自分の問題を解決する」ための道具として売りつけられることがあまりに多く、「自分自身で、黙々と」自己改善を行うことが、ネガティブな自己認識に対する究極の解決策だと思われがちだ。しかし実際には、コミュニティ単位でのラディカルな変革が、人生を生きづらいものにしている根本的な要因を解決できる唯一の方法である。 

「セルフケア」と「セルフィッシュ」の違い

また、セルフケアを「最優先」するべきだという、一見ラディカルな概念が、気づかぬうちに自他を傷つけ、社会全体の孤独を深める要因になることも懸念されている。現代において、アメリカでは”You don’t owe anyone anything(あなたは誰にも借りがない)」というフレーズが話題になっている。しかしその結果、「恩」や「お互い様だから助け合おう」というコミュニティでの相互支援のあり方も薄れてしまい、「孤独」が社会問題となっている。

「セルフラブ」は日本語に翻訳すると、「自己愛」という言葉になる。「自己愛」という言葉から連想するのは、「自己中心的」や「セルフィッシュ」という、ネガティブな意味合いではないだろうか。しかし、自分を大切にすることは、他人を突き放したり、自分「だけ」のことを大切にすることとイコールではない。例えば、自分のニーズをネグレクトしながら他者のケアに尽力したり、自分を傷つける人に対してNOと言えず、関係を続けてしまったり……。このような場合も、平和主義であると信じていたり、和をみださないことを優先したりするあまり、長期的には自分のことを大切にせず、周りの人にもケアを与えられなくなってしまう。だからこそ、本来的な意味での「セルフラブ」は、自分の心や体と向き合い、自分を犠牲にしない練習でもある。

しかし、その本来的な意味を曲解し、「自分を優先」するあまり、例えば友人のお願い事を全て無視したり、「誰に対しても責任はない」と言い放つことで、ちょっとした頼み事などを拒否したり、逆に他者の話を親身になって聞きづらくなってしまっている風潮が問題視されている。人間とは社交的な生き物であり、特に多くの人が労働環境や育児サポートの少なさなどに悩まされている以上、「自分一人で生きていく」ことは決してできない。

条件付きの自己受容から抜け出す

「セルフケア」とSNSで検索すると、きまって高価なスキンケアやミニマリストなインテリア、グリーンスムージーやピラティススタジオ、そして細身でモデルのような見た目の被写体が映し出される。そのような画像をスマホで眺めることは心地が良いし、憧れの気持ちも生まれるだろう。しかしこのようにSNSで「視線」を集めるために完璧にキュレーションされ、画面の向こうに存在する観客のために作られたライフスタイルが「セルフラブ 」と規定されてしまうことには、多くの危険性がはらむ。セルフケアの実践を、商業的で完璧主義的な「自分を大切にする」という考え方に合わせてしまうと、過剰消費の罠にはまり、見えない観客のために自分の人生をフィルタリングすることになる。そして無意識のうちに、商業化されたセルフケアルーティンをいかに「正しく」行えるか、あるいは休みの日にいかに「生産的」になれるかを考えるようになってしまう。それは、抵抗の一形態としての「休み」という本来の概念に逆行しているではないだろうか? 

運動不足解消のために通い始めた早朝ピラティスのクラスに参加するために、トレンドのピンクの色味のセットアップを買う。ピラティスのスタジオも、「インスタ映え」する場所を選び、クラス終わりにはアーモンドミルクのアイスラテを飲んで帰る。シャワーを浴びて、保湿パックを使い、インフルエンサーが話題にしていたサプリを飲み、仕事に向かう。このように自身の健康のあり方さえも「生産的」で「完璧」でなければならないと錯覚し、存在しない「理想像」に向かってハッスルし続けるのであれば、真に癒されることもケアされることも、悩みの根本である何かしらの束縛からも自由になることもないだろう。特定の美的世界観に当てはまるような生活のみが「許される」ものだと感じてしまう場合は、そのような「商品」と「ライフスタイル」を消費するような自分の存在しか愛することができない。

セルフケアがビジネスや自己啓発に剥奪「生産性」ハックとして売り出されることも、実に矛盾している。最近、一時期の「マインドフルネス」と同様、企業やブランドは自らの社会的責任や持続可能性から目を背けさせようとするかのように、「セルフラブ ・セルフケア」というフレーズをこぞって使うようになった。ラディカルなアクションを求めないこのような「セルフラブ・セルフケア」の使い方は、企業が自己責任を回避するためのマーケティング用語でしかない。

富、美、成功、何であれ、精神的・経済的にあるレベルに達したときにしか自分を愛することができないのであれば、根本的には自分を愛しているとはいえない。資本主義社会において休息するということ自体が抵抗に等しいのに、セルフラブ =が生産性と結びつけられているのは薄気味悪い。資本を生産しているとき、あるいは社会から価値があるとみなされたときにしか自分を愛せないのであれば、それは条件付きの自己受容に過ぎないのだ。

2023年11月1日に公開されたガーディアンの記事で、「The Gospel of Wellness」の作家であり、ジャーナリストでもあるリナ・ラファエル氏は、消費主義的なセルフケアは女性たちを無力化していると話す。

ヨガや泡風呂が足りないからストレスを感じているのではない。ストレスを感じるのは、他にもっと大きな理由があるからだ。出産手当金がないからかもしれない。上司が午後6時以降にメールを送ってくるからかもしれない。パートナーが家の仕事を手伝ってくれないからかもしれない。このようなことは棚上げにされ、あなた一人が問題に対処しなければならないと言われてしまう。

https://www.theguardian.com/wellness/2023/nov/01/wellness-industry-healthcare-women-stress 

セルフケアは生き残るための手段でもある。セルフケアの歴史は、不当な投獄や警察による嫌がらせから生き延びるためにセルフケアを利用した、急進的なブラックパンサー党にまでさかのぼることをご存知だろうか。そのため、抑圧的な資本主義社会との戦いの中で、体を休め、エネルギーを補給するために行われるセルフケアのことを「ラディカル・セルフケア」と呼ぶ

https://www.kawaiiriot.org/kr101/radical-self-care 

(※ブラックパンサー党の歴史の詳細について興味のある方は、ぜひ別途文献を参照して読んでほしい)

自分自身をケアすることは、政治的抵抗の一形態である。さらされている抑圧的なシステムに抗議することを望まない資本主義社会では、セルフケアの実践は、社会運動を持続可能にする活力と闘うためのモチベーションを生み出すきっかけになる。そして自分を大切にすることは、喜びを感じ、いきいきとした生活を取り戻すために必要不可欠な行動だ。

セルフケアの起源を思い出す

SNSを見ていると、「セルフケア」とはキャンドルを焚いてスタバのラテをすすったり、泡風呂に入って高級なバスソルトを使ったり、トレンディなヨガパンツを履いてヨガをしたりすることのように感じられるかもしれない。これらの記号ばかりに触れていると、「セルフケアはお金と時間に余裕のある若者のためのもの」だと思い込みがちだ。しかしセルフケアの起源は、1950年代初頭に医療・看護の分野で広まり始め、1960年代〜70年代のブラックパワー運動や公民権運動家、特にブラックパンサー党が「活動家たちのための燃え尽き症候群対策」として利用し始めてから、主流となったと言われている。https://baltimoretimes-online.com/living-well/2022/03/03/how-the-black-panthers-used-self-care-as-a-form-of-empowerment/

ブラックパンサー党は、1966年、警察の横暴から黒人社会を守るために大学生によって結成された政治団体だ。社会的に抑圧されていた黒人コミュニティのために無料の診療所、学校、無料の食料提供システムなどの画期的な社会プログラムを運営したことでも知られている。

元ブラック・パンサー指導者で現在カリフォルニア大学サンタクルーズ校の名誉教授アンジェラ・デイヴィスは、のちに無罪判決を受けたものの、共産主義・反差別主義の思想が当時のアメリカ政府によって危険視され、ある事件に関与したとして1970年に殺人、誘拐、陰謀の罪状で告発されて、18か月間刑務所に拘留・孤立拘禁された。その間、身体的、精神的健康を維持するために、アンジェラは執筆、マインドフルネス、ヨガ、メディテーションを取り入れ始めた。これは自分たちをエンパワーし、自分たちをケアするためだったと述べている。つまり、アンジェラ・デイヴィスのようなラディカルなアクティビストたちはマインドフルネスやセルフケアを贅沢品ではなく、社会運動に必要なものであり、活動を持続させるためのツールだと考えたのだ。*1

実際、アンジェラ・デイヴィスは、”今、集団的なセルフケアを実践しなければ、自由の時代を想像することも、ましてや到達することもできない “と述べている。セルフケアがどのように生まれたのかという歴史的な過程を改めて学ぶことで、現代における我々自身のセルフケアを効果的に実践するためのヒントを得られる。https://www.youtube.com/watch?v=Q1cHoL4vaBs

このようにセルフケアの歴史や起源を遡ると、セルフケアがいかに社会的・政治的な必然性から生まれたのか、そしていかに現在のセルフケアが資本主義的で、本来のムーブメントの文脈から外れてしまっているか、強く実感できるだろう。

しかし今日においても、セルフケア・セルフラブの「抵抗」としての意味合いは決して失われることはない。既存のシステムに争うことで、自分を大切にするという人生の本質を取り戻す。決して聞こえの良いものばかりではなく、泥臭くて地道な作業こそが、大切なのではないだろうか。

※1https://www.teenvogue.com/story/the-radical-history-of-self-care

次回は、12月13日(水)17時更新予定。

<この記事をOHTABOOKSTANDで読む>

Credit:竹田ダニエル
OHTABOOKSTAND

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