どこにもないセカイで、響き続ける祈りの歌/最終回 ポスト2020の〈セカイ〉系「距離」の時代のイメージ学

どこにもないセカイで、響き続ける祈りの歌/最終回 ポスト2020の〈セカイ〉系「距離」の時代のイメージ学

11月2日(木) 17:00

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セカイ(系)。「主人公の周囲の小さな問題と、〈世界の終わり〉のような大きな問題が短絡的に結びつけられる」作品に対して使われてきた言葉。そんなセカイ(系)の作品はかつて「中間にあるはずの〈社会〉が欠落している」と批判や揶揄の対象となっていました。しかし2020年代の今、スマートフォンゲームから音楽配信代行サービスにいたるまで、カタカナの「セカイ」という表記が再び存在感を増しています。

個人編集の「セカイ系」同人誌『ferne』が話題を呼んだ編集者・北出栞さんが、アニメや音楽、美術作品などに見られるイメージを横断しながら、「セカイ」という言葉に宿るリアリティの正体を探ります。

〈セカイ系〉作家、岩井俊二

〈セカイ系〉作家/作品の重要なキーワードとして挙げてきた「切断」と「編集」のクリエイティビティを、最新作『キリエのうた』でも存分に発揮しているのが岩井俊二である。もとより庵野秀明が90年代の『エヴァ』完結後、実写映画『式日』を監督することになった際に主演俳優として起用したり(なお、岩井はのちに『ラストレター』で庵野を俳優として起用)、新海誠も作品からの影響を公言し、近作のキャストには相互参照性が見られる(『すずめの戸締まり』に主役級で出演した松村北斗は『キリエのうた』での演技のよさを岩井から直接説かれてオーディションで選んだ経緯があるという)(※1)など、これまで紹介してきた〈セカイ系〉作家との交流もあるこの映画監督は、彼らと同じく「編集」という工程を非常に重視している。ミュージックビデオのディレクターからキャリアをスタートしているというのも、テレビシリーズのOP・EDでそのセンスを発揮した庵野秀明や、ゲームのプロモーション映像からキャリアをスタートした新海誠との関連性を考える上で特筆すべき点であり、『キリエのうた』でもしっかりと「編集」のクレジットに岩井の名前は記されている。

映画『キリエのうた』特報。178分の本編が、この23秒の映像と同じような断片的な印象を残すものになっていて、そのことが何よりも驚きだった。

2011年/2018年/2023年と三つの時代を行き来する構成をとる本作は、2011年に起きた東日本大震災で家族を失い、天涯孤独となったストリートミュージシャン・路花(ルカ、ステージネーム:キリエ)を軸に展開する。路花は被災直後から言葉でのコミュニケーションが不自由となってしまっており、しかし歌うことはできるという。2018年時点では帯広におり、震災で命を落とした姉(キリエとは本来この姉の名前である)の恋人であった夏彦という青年に音楽を教わりながら暮らしていたのだが、そのことを良しとしない里親(と、その通報を受けた行政)によって引き裂かれ、2023年時点では独り路上生活を余儀なくされている。路上ライブをしていたところ、2018年時点で夏彦の家庭教師先であり、路花とも交流のあった逸子(イッコ)という女性と東京で再会して……というのが2023年の時間軸でのスタートラインである。

『キリエのうた』は音楽プロデューサーの小林武史とタッグを組んだ『スワロウテイル』(1996)『リリイ・シュシュのすべて』(2001)に続く「音楽映画」である。「音楽映画」とは、単に音楽(家)が映画の中心にあるというのみならず、主題歌の作詞作曲のプロセスにまで監督・脚本である岩井が深く関わり、本人によれば「ミュージカル映画とも、普通の映画とも違うもので、僕自身としては映画を作るという行為と同じか、むしろそれ以上の熱量で音楽のトラックに向き合っていく作品」だという。特に本作においては劇伴が「添え物」にならないよう、オフの音(画面の中で音の発生源が映し出されていない音)と作中曲の演奏がシームレスに溶け合うようなあり方が徹底されている。

「音は基本的に全部現場のトラックを使うという決め事が自分の中にあったんです。その場のリアルな音をそのまま録音して使う。当て振りじゃなくどのシーンも本人が歌っていて、お芝居のトラックと同じ線上に音楽のトラックも置くということをやってみたかった」

「映画づくりにおいては、映画サイドが音楽トラックをアンタッチャブルなものだと思い込んでいるふしがあるんですよね。〔…〕演奏シーンになると明らかにそれまでとは違う音像でポーンと入ってくるせいで、前後のシーンとの繋がりに違和感を覚えることってないですか?あれ、キツいよなあとずっと思っていたんです。演奏が空振りに見えて全然熱くなれない。突如マスタリング音源がやってきた、みたいな」

「細かいことを言うと、劇中の足音まで自分で入れたりしています。〔…〕普通の足音では気に入らないんですよ。こんなはずないじゃん、と思ってしまって。そこで色々な音を重ねて作っていくんです」(※2)

「トラック」や「マスタリング」といったDAW(Digital Audio Workstation)を用いた音楽制作の工程にかかわる用語をインタビューで発する映画監督は珍しい。こうした発言からも岩井が映像と音楽をソフトウェア上で等価に扱える、ポスト・デジタル時代の「編集」の作家――1963年生まれの岩井は、その始祖と言えるかもしれない――であることが窺い知れるだろう。

※1新海誠監督、『すずめの戸締まり』“おかえり上映”で松村北斗起用の裏話を明かす「岩井俊二さんが『キリエのうた』を撮っている時に…」(MOVIE WALKER PRESS)https://moviewalker.jp/news/article/1158117/

※2映画『キリエのうた』SPECIAL INTERVIEW岩井俊二+小林武史+アイナ・ジ・エンド( SWITCH ONLINE) https://www.switch-pub.co.jp/kyrie-movie-special-interview/

匿名的なつながり

岩井×小林タッグの「音楽映画」としては三作目の『キリエのうた』は、二作目の『リリイ・シュシュのすべて』から20年以上の月日が経っている。音楽の受容体験という切り口で見たときに、最も時代的な違いがあるのはインターネットの位置づけだろう。『リリイ・シュシュのすべて』では個人サイトと匿名掲示板が重要な役割を果たしたが、現代はスマートフォンとSNS……「アカウント」というものにすべてが紐づいていく「顕名性」の時代である(ついでに言えば音楽を聴く環境も、『リリイ・シュシュのすべて』の登場人物が使っているのがスタンドアローンなCDプレイヤーだったのに対し、2023年現在の中心は、インターネットへの接続を前提としたストリーミングサービスや動画プラットフォームである)。

岩井はそのキャリアを通して、メディアを介したコミュニケーションを作品の中心に据えてきた作家だ。長編第一作である『Love Letter』(1995)をはじめ、代筆やなりすましといったギミック、兼役の効果的な活用など「分身」のモチーフが頻出することもよく指摘されるが(たとえば『キリエのうた』では2018年/2023年の路花と2011年のキリエをともにアイナ・ジ・エンドが演じている)、共通するのは、メディアというものが二者関係の間に「距離」を作り出すものであり、そこでのコミュニケーションに強度をもたらすのがある種の匿名性である、という感覚だ。手紙やメールの向こう側にいる相手は、本来言葉を交わしたい人ではないかもしれない。代筆人や、なりすましかもしれない。しかしそこに確かに心を動かすコミュニケーションが成立しているのなら、すべてを幻と言ってしまっていいのだろうか?そんな曖昧で儚い感覚に賭けようとするのだ。

『リリイ・シュシュのすべて』では、地方都市に暮らす少年が、自身の運営する匿名掲示板の中で神格化されていくリリイという歌姫に救いを求める一方、その神秘性に触れられないもどかしさが反転して現実のやるせなさを増幅し、破滅的な結末に向かっていく様が描かれていた。一方、『キリエのうた』で路花=キリエが音楽家としての知名度を上げていく過程は、ショート動画やSNSを駆使したものとして描かれる。しかし重要なのは、そうした「顕名的なつながり」のインターネット環境を基礎にした関係性においても、匿名性に信頼を置く岩井の姿勢は貫かれているということだ。キリエと出会う音楽家たちは、「風琴」だとか「松坂珈琲」だとか、活動名でしかお互いのことを知らない存在ばかりで、しかしそれでまったく問題なく活動は成り立っている。キリエをそうしたネットワークに接続する自称マネージャーのイッコも、実のところ「真緒里(マオリ)」という本名を捨てているのだ(路花=キリエと真緒里=イッコはお互いの本名をお互いしか知らず、だからこそこの二人の関係はある種の特別なものとして、映画の冒頭とラストに置かれている)。名前や言葉によらない関係性、「匿名的なつながり」をこの現代においても実現することができるということを、岩井は信じているように思える。

本作では「顕名的なつながり」に対して「匿名的なつながり」が称揚される一方、「かけがえのない(顕名的な)誰か」とのコミュニケーションは、「切断」を伴うものとして描かれる。2011年の出来事を回想するパートで、仙台に住んでいる夏彦と石巻に住んでいるキリエが、地震発生の瞬間に携帯電話で会話しているシーンがある。通話中に地震が起こって、一旦揺れがおさまり、津波がやってくるまでの間通話をし続ける。二人を映す画面が断続的に切り替わるのだが、津波がやってくる直前で通話は切れてしまい、画面の切り替わりも止まる。無力感に打ちひしがれる夏彦の姿は、死地にいる女性に対して何もできない男性、というあまりに(否定的な文脈で言われた意味での)〈セカイ系〉的なものなのだが、あくまで回想シーンの中に置かれることにより、ひとつの倫理観を示してもいる。最愛の人に言葉を届ける手段も二度となく、その後も喪失を抱え続ける夏彦の姿は終始痛ましい。しかし、そんな夏彦だからこそ、言葉の話せなくなった路花に音楽を教えることができたかもしれないのだ。

小学生の路花は津波から逃れた後、姉の恋人である夏彦が大阪の大学に入ることになったという情報を覚えていて、避難所から大阪行きのバスにひとり乗り込み、現地で浮浪児となっていたところを親切な女性教師に保護されることになる。女性教師は路花が身につけていた荷物から市外局番をインターネット検索し、石巻の出身であることを突き止める。さらにSNS検索をして「ナツ」というアカウントが「キリエ」という人物の安否を案じていることを知り、路花から姉である「キリエ」の名前と「なっちゃん」というその恋人の名前を引き出したことにより「ナツ=なっちゃん=夏彦」であることを特定し、二人を再会させることができたのである。

結局、正規の肉親ではない夏彦は路花の保護者としては認められないと行政に引き裂かれ、帯広で「再々会」するまでにはさらに数年を要することになるのだが、それだって2011年の再会がなければあり得なかったはずである。インターネットの中にある、その人の存在を示すわずかな痕跡をたどることで、第三者(女性教師)を介して、切れかけていた縁を結び直すことができたのだ。

音楽家として開花した路花が夏彦と2023年に「再々々会」し、彼のギター演奏に合わせて路上で歌うシーンは、作中で最も感動的なシーンのひとつだ。恋人とも兄妹ともいえない、それこそ法律的には決して定義できない種類の、しかし決して切れないつながりの痕跡として、歌という、言葉に還元できないコミュニケーションの手段が作品の中心に置かれているのである。

「世界はどこにもないよ」

〈セカイ系〉に関しては、死地に赴くのはもっぱら女性で、それを見送るしかできない無力な男性、という構図を男性側の一方的な視点でセンチメンタルに描いているとよく批判された。確かにそういった作品ばかりが世の中にあふれていたのなら問題だが、男性が死地に赴き、女性はそれを「見送る」ばかりという図式もそれはそれで問題があるわけで、本来検証されるべきは男女の非対称性よりも、そこにあるセンチメンタルさが自己憐憫にまみれたものになってはいないか、ということだろう。その上で『ほしのこえ』を見てみると、「見送る」側の男性主人公ノボルは「心を固く、冷たく、強くする」ことを決め、ミカコのいる宇宙に向かうため「大人になる(=宇宙に派遣される可能性のある、軍人になる)」ことを決めるのであり、無力感を噛み締めて今、自分にできる最善を尽くす彼の姿は、自己憐憫にまみれただけのものとは到底言えない。そして夏彦もキリエとの通話が切れたあと、打ちひしがれるのもそこそこに、仙台から石巻に向けての道を自らの足でひた走るのである。その後も被災地でボランティア活動をしている旨など語られ、無力感を前にしてただ呆然としているような人物像ではない。

何もこれは「うだうだ考えていないで身体を動かせ」といった話をしたいのではない。彼らの足を前に進めるのは、大切な誰かの無事を願う「祈り」だ。圧倒的で口を噤むより他ないものに直面したとき、「無駄かもしれない、だけど、それでも」と、限りなくゼロに近い可能性、奇跡に身を投じるためのエネルギーに変えるものとして「祈り」がある。

これまでこの連載では、匿名性から顕名性へ向かうインターネットの、つながりすぎ、一貫性が求められすぎることの息苦しさに対する、「どこでもなさ」性や「誰でもなさ」性、あるいは「沈黙」することの意義を〈セカイ系〉と呼ばれる作品を通して肯定しようとしてきた。「祈り」とは、まさに「どこでもない」場所で「誰でもない」存在として行われるものだ。ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で次のように語っていた。

一世界は成立していることがらの総体である。

一・一世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。

一・一一世界は諸事実によって、そしてそれが事実のすべてであることによって、規定されている。

一・一二なぜなら、事実の総体は、何が成立しているのかを規定すると同時に、何が成立していないのかをも規定するからである。

一・一三論理空間のなかにある諸事実、それが世界である。

(中略)

七語りえぬものについては、沈黙せねばならない。

――『論理哲学論考』(野矢茂樹訳、岩波文庫)

ウィトゲンシュタインが「言語の限界」を突き詰めた果てに至った沈黙、そのただ中で行われることこそ「祈り」である。『キリエのうた』のクライマックスで演奏される「キリエ・憐れみの讃歌」の最後のサビでは「世界はどこにもないよ」と歌われる。言葉で語り得る事実とは異なる領域に、夏彦にとっての震災のような、あるいは〈セカイ系〉にとっての「世界の終わり」のような、圧倒的な出来事というものはある。

確かに「3.11」とか「東日本大震災」とか名付けることは、歴史の検証作業のために必要なことだ。しかし個人の体験にとっては、そう名付けることによってこぼれ落ちてしまうディテールがある。キリエが波にさらわれる直前と思しき瞬間(映像では直接描かれない)には画面がモノクロになり、讃美歌風の楽曲が流れ、妙に荘厳な雰囲気でキリエが路花を抱きしめるカットが挿入されるのだが、そのように災害という表象には「崇高」性(おそれと同時に、美しさも覚えてしまうこと)がどうしようもなく宿るということからも、この作品は逃げることをしない。夏彦との通話はその直前に切れているのであり、彼が抱く心象風景としてのロマンティックさ(自己憐憫)とキリエの像を結びつけることは、むしろ慎重に回避されていると言っていいだろう。これは映画というメディアが、たとえば「東日本大震災」と名付けられるような特定の出来事の全体を描くことは決してできない、ということへの自覚でもある。

震災という出来事の、それまでの日常からの圧倒的な「切断」性を受け止めつつ、言語化不可能なものの「崇高」性をも表現する綱渡りをやってのけた岩井は、〈セカイ系〉作家として、同じく震災という題材に向き合った『すずめの戸締まり』の新海よりも、遥かに高度なことをやってのけていると言っていい。『すずめの戸締まり』の「常世」は確かに、現実の時空間から「切断」された領域として描かれていた。しかし物語上の役割としては、震災当事者である主人公・鈴芽が現実を強く生きていくための、過去の精算の場として使われたという側面が大きい。現実それ自体は切断されることなく連続的なもので、その中で生きていくために一旦は「常世」のような場所を経由する必要がある、という描き方だったわけだ。対して『キリエのうた』は設定ではなく手法によって、「切断」と「編集」という〈セカイ系〉の思想を体現している。現実それ自体が、いま、自分がどこに立っているのか、自分は何者なのかの足場さえ危うくする「切断」的な経験に満ちた、〈セカイ系〉的なものなのだと喝破するのである。

終わる世界に祈りを込めて

2022年末から一年近くこの連載を続けてきて、ロシアの侵攻によるウクライナ情勢は予断を許さないままだし、10月にはガザ地区で新たな戦争も勃発してしまった。そんな中、足を運んだ漫画『最終兵器彼女』の原画展(2023年10月7日〜10月22日、東京ソラマチにて開催)には、だからこそ感じ入るものがあった。

戦争はどこか遠いところで行われている、ディテールを欠いたもので、戦うべき「敵」も誰だかわからない。男性主人公のシュウジは「最終兵器」となって戦場に投入させられる、恋人のちせとの関係を通じてしかその一端に触れることができない。ソーシャルメディアによって現地の映像が無際限に拡散され、フェイク映像もその中には混じり、現代という時代に起きていることを真面目に把握しようとするほど心身をすり減らしてしまうということもまた問題になっている以上、〈セカイ系〉的な曖昧さの中に留まることは、ある種のオルタナティブな倫理の提案になるかもしれない。戦争が起きているという事実、それ自体をまったく見て見ぬふりすることはなく、しかし曖昧な解像度の中に留まること。せめてそばにいる誰かのことは大切にしようと決意すること。

原画展には平日の日中に足を運んだが、隣国の出身と思われる男女のカップルや、フリルのついたいわゆるロリータ風の衣装を纏った若い女性が訪れていた。本作に対する、男性の自己憐憫にまみれた、ジェンダー非対称的な作品だという評価が文字通り一面的なものに過ぎないことは、物語的な時系列から解放され、複数枚の「絵」として作品が空間に(再)展開されることで、より明らかなものとなっていた。背中から機械の翼が突き出たちせのビジュアルに象徴される、繊細さと痛々しさの同居する描画。それ自体が強いメッセージ性を発していたのだ。

会場の入口には、原作者である高橋しんによるメッセージが掲げられていて、それがとても胸を打つものだったので引用したい。

この作品は、20年以上前に、たった二年だけ連載されただけの小さな物語です。

その後、最後のシュウジとちせになると思います。と言いながら何度も、ふたりを描いてきました。

絵描きとしてとても幸せなこの現象は、ふたりを大切に育ててくださったたくさんの読者さんが届けて下さいます。

この色紙を描き終えて、また今度も言います。

最後のシュウジとちせになると思います。

この原画展の開催を知ったファンの方からこんな言葉をいただきました。

生まれる前に完結していた作品だから、こんな機会が来るなんて嬉しい。

単行本の最後に、たとえば五年経ったら誰かにこの本を譲って下さい、そう書きました。

こうした奇跡のような機会のおりに思うのです。譲ってくださった方が作品を繋げ、持っていてくださった方が作品を守り、何度も何度も生まれ変わり――そうして今があるのではないか。誰かの本棚にあり続けるというのは、本にとって誰かとのたくさんの人生を冒険を共にするということではないか。

そうした、幾多の冒険を経た、黄緑、甜橙、紫、カーキ、水色、ピンク、そして銀色の少し色褪せて、少しだけ誇らしげな背中の小さな7冊を本棚に、読者さんはいま言って下さいます。

「まだ持っていますよ。」

ここ数年、何度か機会があって答えてきたのですが、改めて。

もう、どうか皆さんずっとこの本を持っていて下さい。

ありがとうございました。

シュウジとちせは、今でも私たちです。

『最終兵器彼女』に英語でつけられたサブタイトルは、こうである。

THE LAST LOVE SONG ON THIS LITTLE PLANET.

世界最後の瞬間に歌われる祈りの歌なのだ。

「主人公と(たいていの場合は)その恋愛相手とのあいだの小さな人間関係を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな問題に直結させる想像力」(※3)などと説明される〈セカイ系〉は、「世界の終わり」と「大切な誰かとの関係」が、同じ重みをもって描かれる作品のあり方を指しているとも考えられる。メディアを見ていると、世界がどんどん悪い方向に向かっていくようなニュースが溢れているのに加え、経済的な理由や精神的な理由、その他の理由によって日々の生活もままならない……となれば、ふとした瞬間に拡大自殺を夢見てしまいかねないそんな時代に、「それでも、大切な誰かの顔は思い浮かびませんか?」と、呼びかけてくるようなところが〈セカイ系〉にはある。

何もかも終わりにしたいという、破滅を願う心。それ自体は否定せず、しかし同時に誰かを傷つけるような、根本的な破滅に至る手前で踏み留まらせるような倫理。「人生、何をやってもうまくいかない」と感じる人が、「うまくいかない」まま、破滅せずに倫理的に生きていくための思想が〈セカイ系〉だと思うのだ。少なくとも、筆者はそういうものとして日々、〈セカイ系〉について考えることで救われている。

「世界はどこにもないよ」……そのあとにキリエが歌う歌詞は、こうである。

「だけどいまここを歩くんだ/希望とか見当たらない/だけどあなたがここにいるから」

これ以上に言葉はいらない。あとは、祈りと歌の仕事だ。だから、この連載も終えることができる。

※3東浩紀『セカイからもっと近くに――現実から切り離された文学の諸問題』(東京創元社、2013年)より。

連載終わり

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Credit:文=北出栞
イラスト=木村勇
OHTABOOKSTAND

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