「武力討幕」を狙った薩長両藩は幕府が存在している間に、その目的を果たすことができなかった。戊辰戦争は幕府が王政復古のクーデターで廃止に追い込まれたあとの出来事。幕府側は「旧幕府軍」と称されるから、幕末維新の動乱で、結局、武力による討幕は実行されなかったことになる。
ところが、明治維新を迎える五年前に「討幕の旗」を掲げて幕府軍と戦った浪人集団がいた。「天誅組」だ。彼らの軌跡と謎を追った。
事件が起きたのは攘夷の動きが最も活発になった文久三年(1863)。当時、ペリー来航後の国難に対応するため、朝廷に新設された国事参政などの職に若い攘夷派の公卿が就き、彼らは長州藩に後押しされ、「攘夷親征」を決定した。
これは当時の孝明天皇自らが先頭に立ち、攘夷を断行しようというもの。このため、八月一三日に大和(奈良県)行幸の詔みことのりが下された。
大和国は朝廷発祥の地。天皇が神武天皇陵や春日大社などで攘夷祈願する計画で、この大和行幸には一〇余藩の軍勢がつき従う予定だった。
加えて攘夷派は、幕府が天皇の攘夷命令に従わないなら、一気に討幕と王政復古を実現しようとした。
つまり、大和行幸といいつつ、実現すれば、天皇を中心とした討幕軍になるはずだったのだ。
とはいえ、孝明天皇自身は討幕どころか、幕府と朝廷が一体になって難局を乗り切ろうという公武合体派。過激な攘夷派公卿や長州藩に押し切られたものの、親政を延期したいという本音を側近の中川宮に漏らしていたともいわれる。
天皇自身がそうなのだから、詔は下されても、攘夷派にとって実行できるかどうか微妙な情勢だった。
ところが、この計画に飛びつき、先走りした人物がいた。土佐藩の脱藩浪士、吉村寅太郎だ。
当時、土佐藩内の攘夷運動は下火になっており、寅太郎を中心とした一八名の土佐藩出身者が攘夷派の若手公卿、中山忠光に働き掛け、天皇の大和行幸の先駆けという触れを回して浪人らを掻き集めたのである。
ただし、行幸の先駆けというのは寅太郎らが兵を募る口実に過ぎなかった。実は、長州藩とともに行幸計画の中心人物だった公卿の三条実美も彼らの挙兵を知らず、その事実を聞き、「(彼らの行動が)かえって(行幸の)妨害をかもすに至る」と送ったが、寅太郎らはその制止を振り切ったのだ。
寅太郎はもともと既得権益にがんじがらめになっている諸大名を当てにせず、浪人による「天下一新」を持論にしていた。
それだけに、今こそが好機だという思いが強かったのだろう。結果、総勢三八名が中山卿を大将に八月一四日に京を発ち、大坂・堺を経て河内に入った。河内では豪農や百姓らを人数に加え、さらには武器、弾薬、食糧なども集めて、一七日に大和の五條へ入った。
そして、その日の夕刻、総勢六〇名ほどで代官所を襲撃したのだ。五条代官所は大和国の天領(幕府領)七万石を支配しており、寅太郎がいわば討幕の先駆けとして挙兵した以上、そのターゲットはやはり幕府でなければならなかった。
代官所にはその日、一三名ほどの役人がいたが、たちどころに制圧して建物を焼いた。
こうして彼らは、討幕のために初めて組織的に武装蜂起した勢力として幕末史にその名をとどめることになった。
その後、彼らが代官所に隣接する桜井寺を本営として、主将(中山卿)、総裁(吉村ら)のポストを定め、本陣には「五条御政府」の立て札を掲げた。
ところが、寅太郎らが代官所を襲撃した翌一八日に中川宮(前出)らが動き、当時、まだ公武合体派だった薩摩藩と会津藩の政変(クーデター)が成功。大和行幸は中止になり、長州藩や三条らの攘夷派は京から一掃されたのである。
寅太郎らが京の同志からの連絡で政変の事実を知るのは翌一九日。賊軍となった彼らには、このとき兵を解散して時を待つという選択肢があったものの、京での巻き返しは十分可能であり、そのための先駆けの兵になろうと考えたようだ。
そこで勤王の志を持つ十津川郷士らを味方につけ、自然の要害に頼ろうと、本陣を山間天辻(奈良県五條市)に移した。十津川村ではかなり強引な徴兵を行ったこともあり、多くの農兵が集まり、こうして彼らは一〇〇〇名を超える陣容となった。このときはまだ意気盛んだったのだ。
ところが、二六日、寅太郎らが同じ大和の高取藩襲撃に失敗したあたりから、暗雲が漂い出した。高取城は峻険な山城として知られており、それを奪って籠城する作戦だったと考えられる。
■1万以上の大軍を前に持ちこたえた理由は!?
ちなみに彼らが「天誅組」といわれるようになったのは、暗雲が漂い出してからだ。生き残った従軍兵の記録とみられる『大和戦争日記』によると、誰ということなく自分たちを「天誅(天に代わって罰を下すこと)組」と称するようになり、敵もそう呼ぶようになったという。
その後、四藩(紀州、津、彦根、大和郡山)を中心にした追討軍が大和を封鎖する形で包囲し、天誅組は十津川郷士らの離反でジリ貧となり、かつ、逃走ルートを探して迷走しつつ、九月二四日に鷲わし家か口ぐち(奈良県東吉野村)で寅太郎らの幹部が討ち死にし、ついに瓦解した。
挙兵から四〇余日。追討軍の兵力は一万人以上だった。それだけの間、なぜ天誅組は大軍を相手に持ちこたえられたのか。
まずは紀州藩では捕らえた者らを「正義の徒」と称えるなど、追討軍が彼らに同情していたこと。
そしてもう一つが天誅組を実像以上に評価しすぎたこと。天誅組の隊士が白襦袢を竿にひっかけて振り回し、追討軍を挑発しても攻め掛かってこなかったという話の他、その警戒心のためか、天誅組の一味と誤解して味方を誤射するなどの事件も相次いだという。
たとえば、会津藩士の松坂三内らが下渕村(奈良県大淀町)に本陣を置いた大和郡山藩で前線視察していたところ、誤って刺殺され、三内の息子による仇討ちに発展した例もあった。ともあれ、幕府が天誅組の追討に手間取ったことで威信の低下に拍車が掛かり、幕府そのものの瓦解を早めてしまったといえよう。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『
明智光秀
は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。
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