小山田圭吾のフジロック出演に、賛否の嵐。いじめ騒動から1年では“早い”のか

FUJI ROCK FESTIVAL公式サイトより

小山田圭吾のフジロック出演に、賛否の嵐。いじめ騒動から1年では“早い”のか

8月4日(木) 8:53

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◆小山田圭吾の活動再開に賛否

小山田圭吾が7月30日の「FUJI ROCK FESTIVAL’22」で活動を再開しました。学生時代の障がい者へのいじめ行為で東京五輪・パラリンピック開会式の音楽制作担当を辞任してからおよそ1年。復帰の是非をめぐり世論が二分しています。

歓迎していたのは現地のフジロック参戦組。ソロユニット「Cornelius」の映像美と音響を駆使したステージングに、ツイッターには「最高」や「圧巻」などの絶賛コメントが多数寄せられました。彼の才能を再認識した音楽ファンは、“帰ってきてくれてありがとう”との思いでいっぱいのようでした。

一方、厳しいコメントであふれたのがヤフーなどのニュースサイトでした。こちらは倫理的、道徳的な観点からの批判。「嫌悪感は拭えない」とか、いじめの被害者への謝罪もないままの活動再開に疑問を呈する意見が大半でした。なかには「結局いじめた側は人生を謳歌している」といった手厳しい声もあり、まだ世間は完全に納得がいっていない様子です。

◆オリパラ降板は“妥当”だったが

この件について筆者は昨年2つの記事を執筆しました。ひとつは小山田氏が行った、もしくは計画したと語ったいじめの残忍さを否定する内容。(『小山田圭吾の“いじめ自慢”と、90年代鬼畜ブーム。まぜ彼は間違ったのか』)

そのあとに、そうした“武勇伝”を語りたくなってしまった背景について考察しました。(『小山田圭吾が“いじめ釈明”で語った、“ワルに見せたかったお坊ちゃん”の軽率』)

そのうえで筆者なりの考えを申し上げれば、オリパラ降板は極めて妥当な判断であったけれども、それ以降の活動にまで自粛を求めるのは行き過ぎだ、となります。

◆いじめに対するNOを示すための政治判断

まずオリンピックとパラリンピックについて。組織委員会の高橋治之元理事に関する金銭授受問題が取り沙汰されている件からも、実態は利権まみれなのは衆目の一致するところです。いまさら五輪精神だなんだと持ち出されたところで、一般市民は冷めきった目でオリンピックを見ています。

しかし、むしろ本質がどす黒いからこそ建前上はより一層の清潔さが求められるわけですね。だから小山田氏の辞任はやむを得なかったのです。

たとえ25年以上前の出来事で若気の至りだったとしても、世界に向けてNOを示さなければならない。弱者への暴行や虐待に関与したとされる人物を守ってはならない。日本のプライドにかけて目に見える形で表明しなければならなかったのです。

ゆえに、これはキャンセルカルチャーに象徴されるアクティビズムではなく、極めて常識的な政治判断と捉えるべき出来事でしょう。開会式のプロジェクトは小山田氏のファンではなく世界に向けられるものであり、この段階に至っては小山田氏の音楽的才能や実績よりも優先すべき事項があるからです。

◆オリパラ後の音楽活動まで縛り付けるのは過剰

しかし、高度な政治的判断を要した前例がその後の小山田氏の活動をも縛ってしまうとしたら、それは過剰なキャンセルカルチャーと言わざるを得ません。世界の注目が集まるオリパラとは異なり、小山田氏個人の音楽活動は彼を知るファンとの間の経済圏で成り立っているからです。

今回の復帰について、「1年足らずで何事もなかったかの様に公の場に登場する神経を疑う」というコメントがありました。この意見は正しいように見えますが、少し違います。

オリパラのように不特定多数の他者を相手にする仕事が“公の場”だとすれば、彼を知り支援したいと願う人たちの前で演奏をすることは多分に私的な要素を含んでいます。

つまり、いじめをふざけ半分で語った過去を知っていても小山田氏の芸術に心を打たれる人たちがいる。小山田氏も彼らの期待に応えたい意欲がある。その二点で成立する経済活動であれば、違法行為でない限り誰もそれを止めることはできないのです。

◆十字架を背負いながらも選択した道

加えて、小山田氏はすでに十分なほどの社会的制裁を受けてきました。長年担当してきた『デザインあ』(Eテレ)を降板し、“障がい者いじめ”のイメージからも生涯逃れられないでしょう。そのように見る世間が悪いのではなく、彼が背負わなければならない十字架です。

だとしても、小山田氏には音楽活動をする権利があるし、それを感情論で制限することがあってはならないのですね。

“いじめを受けた側は立ち直れないケースがあるのに、加害者は比較的容易に復帰できてしまう”との意見もありました。確かにそういう側面はあるでしょうし、筆者も複雑な思いを抱きます。

けれども、それはまた別に取り組むべき問題であって、ひとまず小山田氏にも生活を営む権利があるという事実まで覆すことはできない。

だから筆者は1年ほどで戻ってきた小山田氏の勇気に感嘆するのです。

皮肉ではありません。ほとぼりの冷めないまま、反発の声が大きいこともおそらく承知のうえで職務をまっとうする道を選択した。

罵詈雑言とエールが混在する中で音楽の質を追求する作業は困難を極めるはずです。

人間臭い小山田圭吾。ありえないと思っていた姿が見られるかもしれません。

文/石黒隆之

【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。Twitter: @TakayukiIshigu4



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