◆「芸人はみな竜さんになりたかった」老若男女に愛された国民芸の数々
5月11日、ダチョウ倶楽部のメンバー・上島竜兵さんの突然の訃報は、日本中を悲しみに包んだ。フリートーク全盛のいま、本物の芸を極めた一人の偉大なるコメディアンの雄姿を、もう二度と見られないことを惜しむ人も多いのではないか。
いまや伝説の番組として語られることも多い日本テレビ系『スーパージョッキー』(’83~’99年放送)で共演し、ダチョウ倶楽部を「兄」と慕うタレントの水道橋博士が振り返る。
「オチをわかっているのに笑ってもらえるし、スベっても笑ってもらえる。まさに芸人の理想を地でいく人だった。アドリブのように見えて、ほとんどアドリブはないんですよ」
◆「いつまでたってもたけし軍団への感謝を口にしていました」
下積み時代には上島さんと寺門ジモンはテアトル・エコー、肥後克広はコント赤信号のもとストリップ劇場で芝居を学ぶ。ダチョウ俱楽部を結成してからはショーパブで芸を磨き、独特の「間」を体得した。
「熱湯風呂をやっていた当時、何回目の『押すなよ』で竜さんを風呂に押すかも綿密に打ち合わせていましたよ。もともと『聞いてないよ~』『熱々おでん芸』もビートたけしさんの番組で使っていました。それを国民芸にまで高めたのは彼らの功績です。それなのにいつまでたってもたけし軍団への感謝を口にしていました。
志村けんさんからも影響を受け、『どうだ、オレは面白いだろう』と偉ぶったところのない純粋な面白さを追求し続け、竜さんは老若男女に笑ってもらえる存在になった。有吉弘行さんが『将来はダチョウ倶楽部に入りたい』とよく言っていたように後輩芸人の憧れでした」
◆「芸人の真骨頂をやり続けてきた」
豆絞りの手ぬぐいを巻いて一芸を磨くダチョウ俱楽部の姿は、舞台出身の希代の喜劇役者たちから愛されてきた。一方、繰り返し“お家芸”を求められる苦労もあったようだという。
「同じネタを何十年もやるわけですから、本人が飽きてしまう苦しみや『次はウケないかもしれない』という怖さがある。それでも、たけしさんがコマネチを復活させたり、志村けんさんが『アイーン』を続けたように、『待ってました!』と言われる芸で笑わせるのは芸人の真骨頂でしょう。それをダチョウ俱楽部はやり続けてきた」
ゆくゆくは上島さんも一座を率いる存在になっていたかもしれない。
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◆志村けんさんのように座長になっていたか?
「松竹新喜劇を率いた藤山寛美を尊敬していた志村さんは、’06年から舞台『志村魂』を続けていました。そこで竜さんに喜劇役者の道を示していたと思う。
役者や裏方のまとめ方、時代劇の発声方法から立ち回りまで、どう伝統を守り、玄人筋を納得させる笑いを生み出すのか。誰からも慕われ、太陽のような存在だった竜さんなら座長が務まったでしょう」
あまりにも早すぎる別れだった。
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<取材・文/週刊SPA!編集部>
※週刊SPA!5月17日発売号より
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