ザ・スパイダースが与えたシーンへの影響、当時のプロデューサー本城和治と振り返る

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ザ・スパイダースが与えたシーンへの影響、当時のプロデューサー本城和治と振り返る

8月25日(水) 6:45

日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出していく。2021年8月は元日本フィリップス・レコードのプロデューサー、ディレクターである本城和治の50曲特集。第1週は、彼が手掛けたザ・スパイダースの作品について振り返る。

田家秀樹(以下、田家)こんばんは。FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」案内人、田家秀樹です。今流れているのはザ・スパイダースで「あの時君は若かった」。1968年3月発売のシングル、今月の前テーマはこの曲です。一時、テレビの懐メロ番組でこの曲がテーマだったり、番組の最後に皆でこの曲を歌ったりすることが頻繁にあって、嫌だなあ、安易だなあと思っていたんです。が、今月はこの曲を毎週お聞きいただこうと思っております。お盆の月ですから、昔の友達に会うとか亡くなった方の前で手を合わせる機会が多くなって、あの時は皆若かったよなあという気分になるのが8月ではないかと思います。タイトルの"君"はリスナーのあなた、そして僕らだけでなく今月のゲストにも向けられています。若かったですね、という気分で始めたいと思っております。

あの時君は若かった / ザ・スパイダース

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今月2021年8月の特集は、本城和治の50曲。元日本フィリップス・レコードのプロデューサー、ディレクター。1939年生まれ。もし彼がいなかったらその後の日本のポップミュージックはどうなっていただろう? あの曲、そしてあの人は生まれていなかったのではないか? と思わせてくれる重要な場面をお作りになってきた方であります。何よりもグループサウンズとキャンパスフォークに関して彼の右に出る人はいません。彼が手掛けたメジャーなGSバンドは10組以上。一人でそれだけ手掛けたのは彼だけでしょう。「あの時君は若かった」の制作者であり、ザ・スパイダースを世に送り出した方。今月は彼に選んでいただいた50曲をお聞きいただこうという1ヶ月です。今週は、去年から今年にかけてデビュー55周年のザ・スパイダースについて語っていただこうと思います。


田家:こんばんは。

本城和治(以下、本城):こんばんは。よろしくお願いします。

田家:「あの時君は若かった」で思い出すことは何でしょう?

本城:ちょうどザ・スパイダースが絶頂期と言いますか。ヒットを続出していた時期で、仕事も楽しかったです(笑)。あの時君は……とはまだ思えない絶頂期でしたので、こんなタイトルは生温いと思いながら。

田家:作詞は菅原芙美恵さんで、作曲がかまやつさんですね。

本城:これは確か『週刊平凡』の募集歌だったと思うんですよ。それで詞を募集して、私はその選考に立ち会ってなかったんですけど、その詞にかまやつが曲をつけたのがこの曲だったんです。

田家:ザ・スパイダースも絶頂だったという話がありましたけど、本城さんもまだ20代最後の頃ですよね。あの時と言われてもピンとこない時期から53年が経ちました。今月は5週間かけて50曲選んでいただこうと思っているのですが、本城さんの生涯の制作曲数ってどれくらいおありなんですか?

本城:数えたことないんですが、昔は毎月何枚もアルバム作ってましたね。マルチじゃない時代は1日1枚くらいインストゥメンタルのアルバム作れるくらいだったし。そういった意味では最初の10年くらいで3000曲くらいはいってるんじゃないですかね、トータルなら4、5000曲くらいじゃないですか?

田家:もっとありそうですね、何万とか。

本城:全部が歌物ばかりでもなかったですからね。

田家:その中で今週はザ・スパイダースを選んでいただきました。1966年2月に発売になった「ノー・ノー・ボーイ」。


ノー・ノー・ボーイ / ザ・スパイダース

田家:この曲を選ばれたのは?

本城:これは私が邦楽制作を始めて一番最初に制作して発売した思い出の曲です。私は元々1962年からずっと洋楽をやっていまして、初めての契約アーティストがザ・スパイダースでしたから。

田家:元々ビクターで洋楽をおやりになっていたんですよね。ザ・スパイダースのデビューは1965年にクラウンレコードで、「モンキーダンス」という曲は阿久悠さんのデビュー作でもありましたね。そこから移ってこられた。

本城:クラウンで出たものはワンショットの企画モノだったんです。ザ・スパイダース自体はフリーでしたから、フィリップス・レコードと専属契約を結ぶわけです。

田家:それまで専属じゃなかったんですね。そんな話もこれからお訊きしていこうと思います。


ヘイ・ボーイ / ザ・スパイダース

田家:1966年4月発売の「ヘイ・ボーイ」。ザ・スパイダースらしい曲ですね。

本城:そうですね。これは彼らのシングル2作目なんですけど、ザ・スパイダースはかまやつひろしが主に作曲していて、彼の曲っていうのはポップソング的な部分な要素とロックの要素と両面ある。この曲はロックのよさを出した曲ですね。

田家:フィリップスに入る時はお誘いになったんですか?

本城:きっかけはどうだったんでしょう……。話があったんですよ、シンコーミュージックやホリプロ経由で。それで彼らも新しいスタイルの音楽をやるにあたって、新しいイメージのレーベルからというのもあったでしょうし、我々もザ・スパイダース以前にもいろいろなグループを試したりしていたんです。フィリップスも当時は日本ビクターの中にあった部門ですので、ビクターでの契約はできないんですよ。そうするとビクターのアーティストになってしまう。当時は専属制度が厳しくありましたし。我々は基本的にオランダのフィリップスから原盤を出しているのですが、私はどこかの原盤という形で契約するというシステムを日本で初めてやったわけです。それで、シンコーミュージックの原盤としてスタートしました。ホリプロさんとシンコーミュージックがアーティストと録音契約して、フィリップスから発売するという形です。

田家:ホリプロで原盤を作るケースってそれまであったんですか?

本城:なかったです。だからホリプロはそういう機能もなかったので、シンコーミュージックが制作、原盤はホリプロとシンコーミュージックで折半という形ですね。

田家:原盤という形を最初に取ったのがナベプロで、それがクレイジーキャッツでしたが、ホリプロはまだやっていなかったんですね。ザ・スパイダースから始まったんですか?

本城:そうです。

田家:特にビクターは橋幸夫さんとか吉田正さんという大作曲家もいて。歌謡曲の会社というイメージがあったでしょうから、こういう音楽はできなかったかもしれないですね。

本城:そういうセンスのあるディレクターもいなかったでしょうしね。

田家:なるほど。本城さんはその中でもザ・スパイダースにいろいろな可能性を感じたと。その辺も後ほど伺いましょう。続いて1966年7月に発売になった「サマー・ガール」。


サマー・ガール / ザ・スパイダース

田家:本日4曲目です。この曲を選んだのは?

本城:単純に好きだというのもありますし、ビーチ・ボーイズ的なアメリカな感じもあるので。どうしてもザ・スパイダースはビートルズのようなブリティッシュなイメージがあったんですが、この曲はアメリカン・ポップのようでかまやつらしいセンスの溢れるいい曲だなって思います。この曲はのちにC-C-Bもカバーしてますよね。彼らもザ・スパイダースのファンだったらしくて、なかなかいい演奏をしてます。

田家:ザ・スパイダースの中で、最初にバンドをやろうぜと言ったのがかまやつひろしさんと田辺昭知さんで、ザ・スパイダースという名前はかまやつさんのお父様のディープ・釜萢さんがお付けになった。田辺さんがドラムで、ベースが加藤充さん、ギター・ボーカルがかまやつひろしさん、オルガンに大野克夫さん、ギターに井上孝之さん、ボーカルが堺正章さんと井上順さん。この編成について、当時はどう思われました?

本城:元々ザ・スパイダースは1961年にスタートしていまして、当時はロックとは関係のない、今でいうラウンジ・ミュージックみたいな感じで。エキゾチックだったり、ライト・ジャズのようなBGM的な聞きやすいオシャレな音楽をやってるグループだったんです。いろいろな歌手の伴奏もやったりして、どんどんメンバーも入れ替わって、最初はゲストアーテイストだったかまやつもメンバーになって、堺正章も最後はボーカルになって。大野克夫と加藤充は京都から呼ばれて、井上堯之も大阪からやってきて。彼は元々のザ・スパイダースのコーラス担当で踊りながら歌っていて。ザ・ワイルドワンズのカセットにも一時期参加していたらしいんですが、結局リードギターがいなくて、かまやつひろしが彼にギターの座を譲ってリードギターになってメンバーが固まった。1964年に井上順が入って、レコーディングするようなグループになった。1964年にビートルズ旋風が世に起こって、かまやつひろしがグループのイメージを一新しようということでビート・グループになったんですね。

田家:「サマー・ガール」はビートルズが来日した直後に発売されましたが、GSのバンドやレコード会社の洋楽担当者ってビートルズに対してどんな反応をされていたんですか?

本城:会社によって違うでしょうけど、私はイギリス系のグループは結構出していましてから非常に興味を持ちました。ザ・スパイダースは元々ビートルズの前座に呼ばれていたんですけど、断ったんですよね。やっぱり、ザ・スパイダースは客席でちゃんとビートルズを見たいということもあって。それまでもアニマルズ、ベンチャーズ、ビーチ・ボーイズなど色々なグループの前座もやってましたし、彼らのプライドもあったんでしょうね。私は星加ルミ子さんの隣で観ましたね。

田家:すごいですね、VIP席そのものですね。

本城:ただ、女子の絶叫でちゃんと音楽が聞こえなかったイメージがあります。「イエスタディ」だけちゃんと聞こえましたけど。

田家:聞こえたという人と聞こえなかった人がいますね、席によるんですね(笑)。続いて本城さんが選ばれた5曲目、1966年9月発売の6枚目のシングル「夕陽が泣いている」。


夕陽が泣いている / ザ・スパイダース

田家:この曲は色々な思い出がおありだと思います。

本城:これは私たちがそれまで企画したものと違って、想像もしなかった浜口庫之助さんの作詞作曲なんです。ホリプロの堀さんとはお付き合いがあったわけなんですけど。これも後から知ったんですけど、堀さんがどこかのホテルのバーでばったり浜口さんに会っていい曲ができたんだと言われた。夕陽が泣いているイメージの曲だということで、堀さんが興味を持たれてぜひその曲を聞かせてくださいとデモテープをもらって。そのテープを田辺昭知の元に届けて、ザ・スパイダースのスタジオで仕上げた。それまでのザ・スパイダースと全然違う曲調なので、リズムとかイントロを苦労してましたね。あの印象的なイントロは井上堯之が作ったものだと思っていたんですけど、実は浜口先生が作ったメロディらしいんですよね。イントロを初めて聞かされた時に、ちょっと歌謡曲チックだけど哀愁味があって。それまでザ・スパイダースのレコードを作った立場の反省としては、垢抜けした洋楽的な音楽だけども大ヒットには至らなくて5万枚とか10万枚のセールスは越えられなかったんですよ。洋楽的なセンスのファンしか買わない。この曲だったらもしかしたら10万枚超えられるかもしれないと思いましてね。かまやつひろしなんかはあまり乗り気じゃなかったんですけど、他のメンバーの反対もなく堀さんの強い意向もあってレコーディングしたんですね。堺正章の歌もいれたらいい感じで、初めて彼の歌をダブルにして録ったんです。加山雄三さんは全部ダブルで録っていい感じだったのが頭にあったもんですから、堺正章の歌もダブルにしたらいい感じだった。それでこれは売れる歌になったんですね。

田家:10万枚どころか120万枚になったわけですが。本城さんはマイク眞木さんの「バラが咲いた」もやられていましたので、この曲も本城さんとハマクラさんのお付き合いなのかなと思っていたんです。今の話は今日初めて知った真実ですね。それでは本城さんが選ばれた6曲目「なんとなくなんとなく」。


なんとなくなんとなく / ザ・スパイダース

田家:こういうイントロだったなと改めて思いました。

本城:これは当時ニュー・ボードビル・バンドの曲が大ヒットしましてね。そのサウンドを取り入れてブラスも入ったりして変わったサウンドにして。で、「夕陽が泣いている」は完全に堺正章のソロだったので、これは逆に井上順のソロのレコードにしました。今となってみるとこの曲が一番色々な場面で使われてますよね。最近だとNHKで新人の女性歌手が可愛い声で歌っていて、これは女の子が歌ってもいいなあと思いました。結構スタンダード化しましたね。

田家:当時も息の長い曲になると思いました?

本城:いや全然思わなかったです(笑)。

田家:でも、この「なんとなくなんとなく」のカップリング「ブーン・ブーン」もジョン・リー・フッカーの作詞作曲でかまやつさんが歌っていますね。

本城:アニマルズの曲を参考にしたやつですけどね。

田家:かまやつさんもこの曲を長く歌ってましたね。こういうカップリング曲も含めて、この時期にこういう曲をやりたいという要望はバンドからもあったんですか?

本城:そうですね。当時はオリジナルがそんなに作れなかったですし、当時のGSグループのステージでも外国語の曲のカバーが中心になっちゃいますからね。ザ・スパイダースもオリジナル以外のシングルも出してますし。

田家:曲がもっとあればなあ、という思いもありましたか?

本城:日本の音楽がまだ成熟していなかったというのもありまして。特に諸外国、アメリカやイギリスの曲の良さにかなわない部分はあったので。

田家:この話は今月のメインテーマにもなるかもしれません。来週はザ・スパイダース以外のGSグループも紹介します。


バン・バン・バン / ザ・スパイダース

田家:1967年10月発売になった「いつまでもどこまでも」のカップリング曲ですね。両A面シングルという言葉も当時なかったですね。

本城:そうですね。この「バン・バン・バン」はステージ用に作った曲だったんですけどね。

田家:「いつまでもどこまでも」は作詞が佐々木ひろとさん、作曲がかまやつひろしさん。この二曲はどんな意図だったんですか。

本城:A面はポップソングでB面がロックで彼らの特徴を色々合わせて。「バン・バン・バン」は、ザ・スパイダースらしいロックナンバーで未だにロックのライブの最後もこれで盛り上がる。これは日本で初めて日本のロックで盛り上がる曲だったんですね。

田家:ジョニー・B.グッドで盛り上がるみたいな(笑)。スパイダースは1966年にシングル6枚、1967年にシングル5枚、アルバム4枚とかなり忙しかったんじゃないですか?

本城:そうですね。色々なアーティストも手掛けてましたし。でも当時はまだマルチじゃなかったので、ダビング作業も多くなくて。当時は2チャンネルが主流でしたがビクターは6チャンネルの中途半端なマルチだったので。8チャンネルになるまではそんなにマルチらしい使い方はできなかったですけど。

田家:1日1曲くらい?

本城:もっと録っていたんじゃないですかね? 歌謡曲でしたら2時間でA,B面2曲とか各ディレクターが時間を決めてやっていたので。私は押しちゃうので、昼間は使わせてもらえなくて、夜皆が終わってからって言われたりもして(笑)。メンバーも皆忙しいですから深夜に録るようなことがだんだん多くなりました。

田家:レコーディングに時間かかるようになったのは、メンバーのこだわりが変わってきたのもあるんですか?

本城:それと録り方が普通の歌謡曲と違ってヘッドアレンジみたいな録り方でしたからね。その場でコードを書いて、ボーカルはまだメロディも知らない段階で録り始めることもあって。リハーサルする時間もないですから。スタジオで初めて曲を知って覚えるということもありました。

田家:中には驚いたような曲もあったでしょうね。俺が歌うわけ? みたいな。

本城:それまでスタジオの廊下でいびきかいて寝てるところを、歌の番だよって起こしに行ったりしてました(笑)。

田家:そういうレコーディングってそれまであまりなかったですか?

本城:そう思いますけどね。やっぱりこういうロックとかフォークとか譜面のない録音からでしょうね。

田家:ザ・スパイダースはヘッドアレンジをしていた第一号のロックバンドなんですね。

本城:最初はステージでやってるナンバーも多かったですけど、だんだんオリジナルが増えてスタジオでヘッドアレンジもするようになりましたね。

田家:本城さんが選ばれた次の曲はそういう中で生まれた曲と言えるのでしょうか。1968年9月発売15枚目のシングル「黒ゆりの詩」。


黒ゆりの詩 / ザ・スパイダース

田家:この曲を選ばれた理由は?

本城:ザ・スパイダースの音楽が円熟していって、彼ららしく垢抜けたサウンドの極地だと思います。この曲は大野克夫がエレキシタールを弾いているんです。そういうサウンドを初めて日本で取り入れたり、ビーチ・ボーイズとかジ・アソシエーションなど色々なアイディアも取り入れつつ新しいザ・スパイダースサウンドを作れたなって。ただ、福田一郎が私のところにやってきて「これジ・アソシエーションそっくりじゃないか」って言われたのを覚えてますね(笑)。

田家:作詞は橋本淳さんだったと。

本城:そうですね。その前の「真珠の涙」もそうで、橋本淳さんが自分で売り込んできたんです。彼はブルー・コメッツもやってましたんで、ザ・スパイダースへの起用は全く考えてなかったんでね。

田家:ザ・タイガースを一手に書いてましたね。

本城:淳さんがザ・スパイダースもやらせてよなんて言っててね。僕は、え〜って言ってたんだけど。最初は筒美京平さんとやりたいって言ってたんですよ。でも、筒美京平とは付き合いもあったし才能ももちろんあるんですけど、彼の個性は強いですし、良い意味でも歌謡曲作りの名人ですからね。ザ・ジャガーズは筒美京平サウンドで良かったんですけど、ザ・スパイダースまではやってもらいたくないなと思って。「真珠の涙」だけは京平さんらしい面白いアレンジをしてもらったんですけど。「黒ゆりの詩」は完全にザ・スパイダースのサウンドにしようと思って。

田家:本城さんはザ・サベージとかザ・カーナビーズとかザ・テンプターズとか色々おやりになっていて。ザ・スパイダースは他のバンドとは違ったんでしょうね。

本城:もちろんそうですね。他の才能を借りなくても、ザ・スパイダースだけで音楽を完結できるっていう自信もありましたからね。詞は色々な作詞家に頼みましたけど。

田家:これだけの才能が集まってるわけですからね。この曲の出た1968年9月というのは、ザ・スパイダースにとっても末期になると。

本城:そうでもないんじゃないんですか? ザ・スパイダースは1970年いっぱいまでやってましたし、1970年最初にはじめてそれぞれのソロ作を作ったんですけど、それは本当に末期ですよね。この時期はザ・タイガースも個人の活動が盛んになった時期だと思いますし、そういった意味では、ザ・スパイダースとザ・テンプターズとか一流のグループサウンズは最後までちゃんとして音楽を自分たちのペースでやっていたと思いますけどね。

田家:そういう中で、今週のザ・スパイダースから選ばれた最後の曲は1970年9月発売の最後のシングル「エレクトリックおばあちゃん」。


エレクトリックおばあちゃん / ザ・スパイダース

田家:ザ・スパイダース最後のシングルです。これを選ばれたのは?

本城:この時にはしばらくレコーディングがなくて。でも解散ということを意識してはいなかったんです。これが最後の作品になってしまったんですけどね。それまでザ・スパイダースの色々な曲を作ってきましたけど、グループ自体は非常に真面目なんです。でもテレビとかステージを見ると、ユーモアがあるグループなのにレコードであまりユーモア出してないなっていう気がしたので。私の意図としては、ザ・スパイダースのユーモアをレコードで出してみたいなと思ったんです。なので、これはかまやつ関係なく作詞家の麻生ひろしに相談して、ジャン&ディーンの「パサディナのおばあちゃん」をヒントに面白いもの作ろうよってことで歌詞をお願いして。歌詞が完成してからかまやつひろしのところに持っていって曲作ってよって頼みましたね。

田家:かまやつさんのルーツも弘前市ですもんね。

本城:それは僕も後から偶然知ったんです。全然意識してなくて。でも麻生ひろしは知ってたのかな? 弘前って言葉は彼から出てきたので。

田家:解散というのはどんな風に立ち会われたんですか?

本城:結局それぞれのメンバーが忙しくなって、堺正章も1970年代に入ってドラマ『時間ですよ』とか始まったし。グループとしてよりもその活動の方がメインになってしまって、かまやつも自分で多重録音のアルバム作り始めるし。そういった意味では、ザ・スパイダースの活動が自然とバラバラになってきたというか。ごく自然に1970年の終わりの方に解散になった。でも、解散記念コンサートもやったわけじゃないし。皆才能もあったし、それぞれ忙しくなってきたということでしょうね。

田家:自然に皆が次のステージに移っていったという感じなんでしょうね。本城さんが選ばれた次の曲は、かまやつさんのソロ作。1970年4月に出たソロの最初のシングル「どうにかなるさ」です。


どうにかなるさ / かまやつひろし

田家:作詞が山上路夫さんです。かまやつさんのソロについてはどう思われていました?

本城:この曲に関して言えば、これは彼のセルフカバーなんですよね。元々はザ・タイガースのサリー(岸部修三)とシロー(岸部シロー)のアルバムに、かまやつが提供した2曲のうちの1曲で本人も気に入っていて。僕はこういう曲があったって知らなくて。でも提供してすぐにこのカバーを出したんですよ。

田家:かまやつさんがこの曲やりたいんだよって持ってこられたという。

本城:そんな記憶がありますね。これもいいなあって思ってやった記憶があります。

田家:かまやつさんは1970年2月にソロの一枚目のアルバム『ムッシュー/かまやつひろしの世界』を発表して、日本のレコーディング史上初の多重録音のアルバムとなりました。

本城:いきなりできたんじゃなくて、その前にザ・スパイダースのアルバムの「ミスター・タックス」かな? それでも多重録音を試みていたんですよ。ソロアルバムの収録曲「ムッシュー&タロー」でもやっていましたね。

田家:その時はかまやつさんの方から多重録音でやりたいという話があったんですか?

本城:そうですね。そういうのを取り上げたいって言うから面白いんじゃないって言って。「ミスター・タックス」でやって面白かったので味をしめて、スタジオの空いた時間を使って一人多重録音でアルバムを作り上げたんです。

田家:かまやつさんが多重録音でやりたいと言った時はどう思われました? できるのかなとか思いました?

本城:心配はあまりなかったですね。当時はマルチレコーダーがありましたし、十分可能でしたので。なんの心配もなくお任せしました。

田家:かまやつさんの話は来週以降もお伺いしますが、ザ・スパイダースのメンバーは解散後も音楽を続けた人とやらなくなった人もいて、色々な才能が集まった面白さがありましたね。

本城:でも、リーダーの田辺昭知以外は結局音楽をやったんじゃないですか?

田家:タレントになった方もこうして曲を残したというのが次の曲の例ですね。本日最後の曲です。


お世話になりました / 井上順

田家:1971年9月発売の井上順さんの「お世話になりました」。ソロの2作目ですね。作詞が山上路夫さんで、作曲が筒美京平さんです。この曲の思い出というのは?

本城:ソロの一作目は阿久悠と都倉俊一のコンビで『昨日・今日・明日』と大ヒットしました。2作目は雰囲気を変えようかということで、筒美京平さんにお願いして。この山上路夫・筒美京平コンビの曲は長続きして、未だにカバーされたり流れたりしていますね。

田家:井上順さんはどういうエンターテイナーになるといいなと思いました?

本城:彼は当時アメリカで人気だったディーン・マーティンのモノマネみたいなユーモアがあって。堺正章と違って、漫才のボケとツッコミでいうとボケの要素があって、この曲もそういう味がある曲ですね。

田家:色々な意味も込めて、スパイダースは日本のポップスシーンの中でどんなバンドだったと思いますか?

本城:音楽の中に音楽性とエンターテイメント性を両立できたグループだったと思うんです。色々な音楽というよりはロックというか新しい音楽を突き詰めていく姿勢の中で、エンターテイメント性も発揮してテレビで表現できる。音楽だけだとテレビで表現できないことも多いんですが、それをテレビで表現できる力があった、素晴らしい能力だったんじゃないかと思います。

田家:かまやつさんはビートルズが出てきた時に、同じ機材を使いたいから香港まで買いに行った話をされてましたよ。

本城:海外の機材とか衣装を取り入れるのも早かったし、色々なグループが先陣を切っていく中で彼らがお手本にはなっていたと思います。

田家:本城さんにとってはどんなグループですか?

本城:僕にとってはこちらから教えた部分もあったし、勉強にもなりましたね。他のグループをレコーディングする際にも一つ一つの規範となるものが多かったので勉強になりました。 田家:他のグループについても来週以降お伺いしていきたいと思います。ありがとうございました。

本城:ありがとうございました。





田家:FM COCOLO「J-POP LEGEND FORUM」、本城和治さんの50曲Part1。1970年を境にしたJ-POPシーンの立役者。元日本フィリップス・レコードのプロデューサー、ディレクターの本城和治さんをゲストに迎えての5週間。今週はザ・スパイダースについてお伺いしました。今流れているのは、この番組の後テーマ曲、竹内まりやさんの「静かな伝説」です。

ザ・スパイダースは1960年代の終わり、グループサウンズのバンドの中でもその後のシーンへの影響力が一番大きかったバンドかなと思います。他にはブルー・コメッツとザ・タイガースとかザ・ゴールデン・カップスとか色々いたわけですけど、アーティストとしてはかまやつさん。ミュージシャンとしては井上堯之さん、作曲家としては大野克夫さん。実業家としては田辺昭知さん、さらに井上順さんと堺正章さんという日本のボードビリアン、タレントというよりも音楽寄りな人が二人在籍していた。改めて色々な角度で光を当てる価値、面白さがあるバンドだと思っていましたので、本城さんにザ・スパイダースの話を伺うというのは以前からやろうと思っていたことです。本城さんは森山良子さんとかかまやつひろしさんなど色々な方のデビューからお付き合いされている方ですが、5月に特集した村井邦彦さんの大学の先輩なんです。村井邦彦さんにユーミンを紹介した方です。そういうことも来週以降、色々出てくると思います。

実はもう一つ個人的なことがありまして、私がこういう仕事を始めてまだ放送作家という意識もないような頃に文化放送で音楽番組を作っていて。ある時、まだ届いていない曲のサンプルが必要になって、この人のところに取りに行ってくれと言われて行った先が本城さんだったと思います。「君はどんな番組をやってるの? 今度からレコード送るから」と言われて、この仕事はレコードをもられるんだと思った喜びが今に至っております(笑)。来週は今日が名前が挙がったグループサウンズのバンドの話を色々伺おうと思います。


<INFORMATION>

田家秀樹
1946年、千葉県船橋市生まれ。中央大法学部政治学科卒。1969年、タウン誌のはしりとなった「新宿プレイマップ」創刊編集者を皮切りに、「セイ!ヤング」などの放送作家、若者雑誌編集長を経て音楽評論家、ノンフィクション作家、放送作家、音楽番組パーソリナリテイとして活躍中。
https://takehideki.jimdo.com
https://takehideki.exblog.jp

「J-POP LEGEND FORUM」
月 21:00-22:00
音楽評論家・田家秀樹が日本の音楽の礎となったアーティストに毎月1組ずつスポットを当て、本人や当時の関係者から深く掘り下げた話を引き出す1時間。
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