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元祖人気漫才コンビはなぜ人気絶頂で解散したのか、コンビ解消の仕掛け人はあの人物

2月25日(日) 9:45

放送も終盤に入ったNHKの連続テレビ小説「わろてんか」。その劇中、北村笑店の専務・武井風太(濱田岳)が、しゃべくり漫才で売り出し、人気を集めていた舶来家キース(大野拓朗)と潮アサリ(前野朋哉)にコンビ解消を切り出すシーンがあった。その目的は、東京でも漫才ブームを起こすためで、キースを東京に派遣し、アサリは大阪にとどめ、それぞれ新たな相方と組ませようとしたのだ。この提案にアサリは猛反発するが、キースに説得される形で最終的に受け入れた。ただし、彼は大阪でコンビではなくピン芸人として再出発する。
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コンビ解消の仕掛け人は「吉本のドン」だった
キース・あさりは、戦前に実在した漫才コンビである横山エンタツ・花菱アチャコをモチーフとしていることはあきらかだ。ドラマのなかでキース・あさりがコンビ別れしたように、エンタツ・アチャコも、結成からわずか4年後、人気絶頂にあった1934年にコンビを解消している。きっかけはアチャコが中耳炎で入院したことだった。この間にエンタツは杉浦エノスケと新たにコンビを組むことになる。

直木賞作家・難波利三『笑いで天下を取った男 吉本王国のドン』(ちくま文庫)では、エンタツのほうから相方を代えたいと、当時の吉本興業の総支配人・林正之助(「わろてんか」の武井風太のモチーフと思われる人物の一人)に申し出た様子が描かれている。これについて世間では、二人まとめて売らなくても、一人ずつ分けて売れば稼ぎも倍増すると計算して、コンビを別れさせたのではないかとの見方もあった。しかし、林はこの説を断乎否定したという。

当のエンタツは結局その後コンビ解消について死ぬまで口をつぐみ、アチャコもその理由を生涯知らずじまいであった。だが、林正之助が亡くなってから、真相があきらかにされる。吉本興業でコメディ作家・演出家を務め、林とは近い関係にあった竹本浩三による評伝『吉本興業を創った男 笑芸人・林正之助伝』(扶桑社)によれば、仕掛けたのは林正之助その人だった。

吉本興業では漫才師に給料を別々に支払っており、コンビは互いにいくらもらっているのか知らなかった。それを林は、ある日、エンタツにアチャコとのギャラは五分五分だとそれとなく教えたという。これにエンタツは耐えられなかった。それというのも、アチャコとの漫才は台本も演出もエンタツがほぼすべて膳立てしていたからだ。それなのにギャラが半々というのはおかしい。そう考えたエンタツは、以前から目をつけていた喜劇出身の杉浦エノスケと新たなコンビを組むことを決意する。

エンタツはこのことを、林ではなく彼の姉で社長の吉本せいに申し出た。これは、かつて林から吉本に誘われた際、アチャコとコンビを組むのであればと条件につけていたため、林には直接伝えにくかったためである。せいは当然ながら慰留したが、エンタツは自分の考えを押し通し、けっきょく人気コンビは解消へといたった。

この話は林が生前、「誰にも言うちゃいかんぞ」と念を押しながら竹本浩三にだけ語ってくれたことだという(竹本はこの事実を公表するにあたり《約束は守らねばならないが、この際、合掌してお許しをいただきたい》と断っている)。それにしてもなぜ林は、エンタツとアチャコを別れさせたのか? 彼としては、アチャコの絶妙なボケ役にほれ込んでいたが、エンタツとのコンビではアチャコはツッコミ役だったので、もったいなく思っていたという。そこでアチャコをかつての相方である千歳家今男と再度組ませれば、その本領を発揮できると考え、エンタツと引き離したらしい。コンビ解消を伝えられたとき、アチャコはガタガタ震えていたが、林は「しかしな藤木(アチャコの本名)、おまえにはやっぱりボケが似合うんや。ツッコミはおまえの任(にん)やない」と言って、納得させたという(『吉本興業を創った男 笑芸人・林正之助伝』)。

もっとも、これについては、林の生前からささやかれていたとおり、人気コンビを別れさせて新たにコンビを組ませれば、倍儲けられるとの思惑もあったとの見方も根強い。

解散後のエンタツ・アチャコの「明暗」
林正之助の思惑から、コンビ解消が決まったエンタツ・アチャコだが、彼らのブレーン的存在であった漫才作家の秋田實によれば、アチャコが退院したあともしばらくは一緒に舞台に出演していたという(『秋田實 名作漫才選集1』日本実業出版社)。このとき秋田は、アチャコの病気をネタにした「耳の耳」という台本を彼らに提供している。後年、多くの漫才師たちが自分たちの個人的な事情を、ときには借金や不祥事すらもネタにするようになったが、これはその先駆けともいえる。

それはともかく、コンビ解消後のエンタツとアチャコは明暗がはっきり分かれた。エノスケと組んだエンタツの人気はアチャコをしのぎ、アチャコは「あせればあせるほど、目が出えしまへん」という状態に追い込まれる(富岡多惠子『漫才作者 秋田實』平凡社ライブラリー)。それでも彼は、日活映画「銭形平次」で長谷川一夫扮する平次の子分・八五郎を演じ、当たり役となる。これを契機に、その後、エンタツ・アチャコは映画でのみ復活した。

戦争が終わってまもない1950年、NHK大阪放送局で、エンタツを中心にしたラジオのバラエティ番組「気まぐれショーボート」が始まり、作・構成を秋田實と長沖一(ながおきまこと。秋田とは旧制中学時代からの親友で、ともに戦前より漫才作家として活躍していた)が共同で担当した。ラジオでもエンタツに先んじられたアチャコだが、その1年半後には彼をメインに据えた「アチャコ青春手帖」が始まる。長沖が担当したこの番組は好評で、その後番組として「お父さんはお人好し」も生まれ、10年続く人気番組となった。ここでエンタツとアチャコの立場は大きく逆転する。

長沖は晩年のエンタツに会うと、慰めたい気持ちで食事やバーに誘ったが、そのたびに「藤木はトクなやつや」「藤木はトクしよった」とエンタツが漏らすので、心が痛んだという(『漫才作者 秋田實』)。

エンタツは亡くなる直前、ほとんど寝たきりの生活となり、酒を飲んでテレビを見る日々を送っていたという。1971年、亡くなったその日には、かつての相方アチャコがテレビ番組「ヤングおー!おー!」(毎日放送)で歌を披露する予定で、エンタツは「藤木はどんな歌うたいよるんかなぁ」と気にしていたが、見ることはかなわなかった(笹山敬輔『昭和芸人 七人の最期』文春文庫)。エンタツの葬儀委員長はアチャコが務め、彼もまた、その3年後に逝った。

エンタツ・アチャコ以来、多くの人気漫才師が生まれたが、解消にいたった(横山やすしと西川きよしのように事実上のものも含め)コンビも少なくない。その事情はさまざまだが、エンタツ・アチャコと同様、別れたあと明暗がくっきり分かれるケースの何と目立つことか。

「二代目」はオール阪神・巨人!?
さて、エンタツ・アチャコを別れさせた張本人である林正之助は、後年、二代目の「エンタツ・アチャコ」コンビをつくることを夢見るようになる。なかでもオール阪神・巨人に執心し、彼らの自宅へ早朝に電話をかけては「君ら二代目のエンタツ・アチャコを継がへんか」と切り出し、戸惑わせたという(『吉本興業を創った男 笑芸人・林正之助伝』)。

ちなみに、1988年に制作された林の半生を描いたドラマ「にっぽん笑売人」(関西テレビ・フジテレビ系の「花王名人劇場」で放送)では、エンタツ・アチャコをオール阪神・巨人が演じている。ついでにいえばこのとき林を演じたのは沢田研二であった。
(近藤正高)

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