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昭和の名ディレクターに聞く歌謡ポップス裏話 深夜番組のリクエストからヒット「白い色は恋人の色」

7月31日(金) 17:00

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 J-POPの原点ともいわれる昭和歌謡ポップス。6月29日に掲載した記事では、当時のヒット曲を集めたBOXセット「擦り切れるまで聴いた歌謡ポップス100」のディレクター、日本コロムビアの金子重雄さんに話を聞いたが、あの名曲の裏話をもっと知りたい!というリクエストを受け、金子さんに当時の名ディレクターを紹介していただいた。今回ご登場いただくのはベッツイ&クリス「白い色は恋人の色」や森山加代子「白い蝶のサンバ」を手掛けた飯塚恆雄さん。興味深いお話をうかがうことができた。

――ベッツイ&クリスの「白い色は恋人の色」は、深夜番組のリクエストから人気が出た先駆けだそうですね。リリースのきっかけを教えてください。
 当時僕は日本コロムビアの「デノンレーベル」という新しい歌手を発掘する部署にいました。ちょうど「フランシーヌの場合」(新谷のり子)という曲がそのレーベルで初めてのヒット曲になっていたころに、ある関係者から「ハワイ出身の女の子の2人組ですごくうまい子がいる」と提案を受けたのが始まりです。2人の歌声をデモテープで聴いたら、ユニゾン(斉唱)で歌っていてもハモっているように聴こえるような、素晴らしい歌声でした。
「白い色は恋人の色」はフォークル(ザ・フォーク・クルセダーズ)の北山修と加藤和彦が作詞作曲を手掛けた曲でした。当初、杉田次郎のいたジローズというフォークグループのために作った曲だったんですけど、合わなかったので音楽出版社にプールしてあったのです。それを彼女たちに歌ってもらったら、ぴったりハマったのですね。ベッツィもクリスも日本語は全然話せなかったですが、レコーディングのときは歌詞をローマ字で書いて、その場で練習しました。

――この曲はどうしてヒットしたとお考えですか?
 深夜のラジオ番組と、当時設立されはじめた音楽出版社という二つの要因があります。先ほど名前が出たフォークルの昭和42年(1967年)発売の「帰って来たヨッパライ」という曲は、ラジオ関西で当時始まったばかりの深夜番組でかけたところ、リクエストが殺到したことからレコードを発売しました。すると1週間で100万枚ぐらい売れたのです。若者の音楽とラジオの深夜放送がジョイントしながら成長したことのはしりだったと思います。そのラジオ関西の番組は1年ぐらいで終わってしまったのですが、その後ニッポン放送で「オールナイトニッポン」が始まりました。「白い色は恋人の色」は、「オールナイトニッポン」でかけてもらったことで火がついたのです。
 ある日、僕が文化放送に行ったら、ディレクターに「ベッツイ&クリスのリクエストがものすごく来ているけど、なにか仕込んでない?」と尋ねられたことがありました。僕が組織的にリクエストを出させていると思ったようです。もちろんそんなことは全くしていませんでしたが、「オールナイトニッポン」以外の番組にもリクエストがたくさん来ていると聞いて、これは絶対売れる、と感じました。

――音楽出版社はどういう役割を果たしたのですか?
 音楽出版社は楽曲の著作権管理をする会社なのですが、日本では昭和40年代から続々設立されました。パシフィック音楽出版(現在のフジパシフィックミュージック)がその先駆けでしょうか。
 日本コロムビアをはじめ戦前からのレコード会社では、歌手や作家は専属制でした。どこかの専属にならなければレコードは出せなかったのです。しかし当時新たに設立された音楽出版社が、フリーの歌手や作家を育成しはじめました。ここから、音楽出版社がフリーの作家と曲の原盤を作って、レコード会社に逆に売り込むという動きが始まります。外資系のレコード会社は積極的にフリーの作家を使いましたが、戦前からある日本のレコード会社は非常に遅れていて、フリーの作家を使おうとすると専属の作家から文句が出た。僕がいたデノンレコードは、日本コロムビアがフリーの作家を使うために設立された部署だったのです。
 「白い色は恋人の色」はパシフィック音楽出版が管理していた曲でした。パシフィック音楽出版はニッポン放送が設立した音楽出版社だから、「オールナイトニッポン」が応援してくれたというわけですね。

――当時はどんな宣伝活動をされたのですか?
 ベッツイ&クリスは夏休みを利用して日本に来ていた高校生だったので、レコーディングが終わったら帰国しなければならず、発売当初は本人不在のプロモーションになりました。ヒットして彼女たちは大喜びでしたね。手紙ももらいましたよ。米国ではほとんど名前は知られていませんが、日本では有名になりました。
 宣伝といえば、当時、フォークからニューミージックの流れにいるアーティストの中には、全くテレビに出ない方がいましたね。例えばユーミン(松任谷由実)ですね。
 時代はアルバムの時代になっていました。シングル1曲だけでは伝わらない本人たちの世界観を伝えられるので、アーティストはアルバムをより大事にしたのです。セールス的にも、シングルだと1曲売れても次の曲が同じだけ売れるかは分からないけど、アルバムは前作が5万、10万売れれば、次のアルバムも同じぐらい売れたのです。それはなぜかというと、ファンはそのアーティストの世界、イメージが欲しいからですね。テレビの歌番組はフォークやニューミュージック系のアーティストをアイドルや演歌・歌謡曲系と一緒くたに扱うので世界観やイメージが壊れてしまう可能性があります。当時、NHKの紅白歌合戦に出てユーミンが紅組の演歌やアイドルの人たちと旗をふっていたら、イメージが壊れてしまうでしょう。でも今はずいぶん、テレビに出るようになりましたね、紅白だと他の人と別の枠を設けるなどしてますからね。


森山加代子「白い蝶のサンバ」

――一方森山加代子さんの「白い蝶のサンバ」は、テレビ番組に出演していた森山さんの映像を見て飯塚さんが可能性を見出されたことが発端とお聞きしました。どのような点にピンと来たのでしょうか。
 普段は全くTVの歌番組を見ないのですが、たまたま「ザ・ヒットパレード」の何百回かの記念番組で歌っているところを僕が見たのがきっかけなのです。「月影のナポリ」がヒットしたのち、そのころは彼女の人気は低迷していたんです。所属していた曲直瀬プロから独立すると言って干されたのが原因なのですが、僕は良い曲さえハマればまだまだいけると感じました。リズム感が良かったですし、早口で歌えるセンスもありました。1回売れた人って、何か持っています。声をかけてみたら「今度失敗したら終わりなので」と怖がってもいたようですが、最終的には納得できる曲があればやってみたいと言ってくれて、リリースにつながりました。「白い蝶のサンバ」は、できたばかりの日本テレビ音楽(日本テレビ系の音楽出版社)に曲の権利をすべて譲ったことで協力を得られて、たくさん番組に出してもらえたのがヒットにつながったと聞いています。
 ちょうど彼女と一緒にタクシーで移動していたときに、ラジオの何かのチャートで1位になったことを聞いたんですよ。その時はとてつもなく大きな声を上げて、ものすごく喜んでいましたね。またこの曲の作詞は阿久悠さんだったのですが、阿久さんから『あれが僕の記念すべき最初のNO.1ヒット曲だ』ということもおっしゃっていました。阿久さんにとっても大きな意味のある曲になったそうです。


飯塚恆雄さん

――飯塚さんがこれまでに関わられたアーティストの中で、最も強く思い出に残っている方はどなたですか。
 皆さんそれぞれ衝撃を受けましたが、大瀧詠一さんですね。初めて会ったときに、この人は違うなと思いました。音楽にも非常に詳しかった。バカなことも言いますけどね(笑)。
 ナイアガラレーベルの初期はコロムビアだったのですが、大瀧さんはテレビにはあまり出なくて、地方でレコードコンサートを行っていたのです。予約してくれた20~30人のお客さんを前に、自分のレコードをかけてその曲の解説をするというものです。ファンを非常に大事にしていた方でしたから、小さい場所で、アットホームな雰囲気でしたね。「鋭い質問が来ますよ」なんて喜んでいました。全国で開催していまして、僕もそれに同行していたのですが、当時は青函連絡船がまだあったので、函館から青森まで、8時間一緒にいたこともありました。いろいろ勉強になりましたよ。
 大瀧さんはラジオ番組のDJもやっていて、おしゃべりも上手な方でした。どうやったらあなたみたいに上手にしゃべれるの?と質問したら、「飯塚さんは間がないのですよ」と言われましたね(笑)。落語が好きで「間が大事なのです」と教わったことを覚えています。
 最後に会ったのはいつだったかな、「飯を食いたい」ということで夕方から会ったのですよね。あの人はお酒が飲めないので僕だけ飲みました。昨年亡くなったときは、とてもびっくりしました。

 次回は中村雅俊「ふれあい」、青い三角定規「太陽がくれた季節」、平山みき「真夏の出来事」などを手掛けた渥美章さんに話を聞きます。

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