「がんになる前の自分には戻りたくない」余命宣告を乗り越えた乳がんサバイバー・ミミポポの底力
あの人の底力連載「あの人の底力」は、さまざまな困難を乗り越えてきた・乗り越えようとしているAmebaオフィシャルブロガーにインタビューし、困難に直面した時の正直な気持ちやそこから立ち直るきっかけとなった原動力をひもとき、人間が持つ“底力”を引き出して人生のヒントを探る企画。
第3回は、26歳で乳がんが発覚し、34歳にして余命宣告を受けるも、脅威的な回復を見せたがんサバイバー・ミミポポさんの底力に迫ります。
人生で一番の恐怖。全身脱毛がきっかけで見つかった乳がん
——乳がんが発覚したのは26歳のときだったと聞きました。改めて、乳がんが見つかるまでの経緯をお話いただけますか?
当時はアパレル企業で働いていて、朝早くに出て終電ギリギリで帰る生活をしていました。いま思えば、食生活も割とめちゃくちゃで健康のことは全く考えていなかったんですが「サプリ飲んでるし大丈夫」という変な思い込みがありました。
乳がんが見つかったのは、全身脱毛がきっかけです。脱毛前には自己処理が必要なので、胸に手を添えて、毛を剃っていたら、コロっとしたパチンコ玉のようなものに触れた感覚があったんです。気になったので、念のため病院で診てもらうことにしました。
病院では「若いし良性の腫瘍だと思います。ただ万が一があるから、細胞診もしておきましょう」と軽い感じで言われて、エコーや細胞診をして帰りました。そのときは、まさか自分が、がんだとは思いもしませんでした。
——乳がんの告知の時のことを教えてください。
最初の受診から2日後、仕事中に病院から電話がかかってきて、一瞬で血の気が引きました。その電話で「悪性の結果が出たので、できるだけ早く病院に来てください」と。
先輩に「今日は帰っていいよ」と言われて会社を出た瞬間、泣きながら母に電話しました。パニック状態で、その後どうやって家に帰ったのか、正直覚えていません。
それから母と病院を訪れ、乳がんの告知を受けたんですが、ずっと心臓を鷲掴みされているようで、恐怖しかなかったです。
1人で寝られないし、ご飯も味がしないし、前を向いて歩くことさえしんどくて……。これまでの人生を振り返っても、これほどの恐怖を経験したことはありませんでした。
——ミミポポさんは告知後、手術や抗がん剤治療はせずに東洋医学での治療をスタートしたとのことですが、なぜその決断に至ったのでしょうか?
当時はまだステージ0だったんですが、病院では「手術も放射線治療も抗がん剤治療も全部やる」「まだ若いから進行が早い」「こうしないと危ない」と言われるばかりで、希望を持てる言葉を一切聞けなくて……。
今考えれば極端やなって思うんですが、1度手術を決めたあとに納得できない説明があったり、お医者さんによって言うことが全然違ったりして「このまま命預けられへん」と医療不信に陥ってしまい、その病院には行かなくなってしまいました。
その後、がんや治療について自力で調べて、納得できた東洋医学での治療を受けることに決めました。
一時は腫瘍が半分になるも待っていたのは余命宣告
——東洋医学で治療を開始してから、ご自身の生活にはどんな変化がありましたか?
東洋医学の病院に通いながら、それまでの生活を徹底的に見直しました。
まずハードワークだったアパレルは辞めて、自分のペースでできるパーソナルカラーの講師の仕事をはじめました。無農薬の野菜を買って自炊したり、食生活も大きく変わりましたね。それで最初1.5cmだった腫瘍が、28歳のときには6.8mmと半分以下まで小さくなったんです。
でも、油断やいろいろなことが重なり、30歳のときには腫瘍が胸から飛び出して、花咲乳がんになりました。
——花咲乳がんになると、どんな症状が出てくるのでしょうか。
花咲乳がんとは、乳がんのしこりが乳腺内にとどまらず、体の表面にでている状態です。腫瘍からの出血と鋭利なナイフで胸を刺されるような痛みが続くようになりました。
最終的には痛みのあまり朝まで寝られないほどでしたが、それでも変な話「つらくない」と思い込んでたんですよね。
——それはなぜなのでしょうか?
無理にでも、前向きでいようとしていたんだと思います。友達に勧められて病院を受診したときには、すぐ手術するのは難しいくらい腫瘍が大きくなっていて。それでも「がんに負けたくない!」とほかの治療を試しては、ギリギリまで無理を続けていました。
ちゃんと自分と向き合えたのは、34歳での余命宣告のタイミングだったと思います。
——「一番しんどかったのは余命宣告のとき」とブログでも振り返っていましたが、実際どのような状況だったのでしょうか。
はじめは歩きにくい状態だったのが、どんどん身体が動かなくなって、2019年の秋には寝たきりになっていました。そこで訪問看護の利用をきっかけに病院を受診したところ「この状況じゃ冬は越せないだろう」と。乳がんはステージ4まで進行していて、もって2か月という余命宣告を受けました。
その頃は24時間ずっと身体が痛くて「よく生きてたな」ってくらい。腫瘍は人差し指1本分ほど飛び出ていたし、身体をちょっと動かすだけで泣き叫ぶほどの痛みが走るんです。
人形みたいに横たわって、ただひたすら痛みに耐えて息をしているだけで「私、生きてる意味あるのかな」と思う瞬間もありました。
「私は絶対にがんで死なない」寝たきりの状態でも諦めなかったミミポポさんの原動力
——余命宣告や当時の過酷な状況をどのように乗り越えたのでしょうか?
信じられないかもしれませんが、当時は寝たきりになった原因を筋肉が衰えたせいだと思い込んで、無理にでも動こうとしてたんです。だから余命宣告で骨転移がわかった瞬間「しんどくて当たり前やったんや」と気持ちがラクになって(笑)。
よく「回復できたから前向きになれたんでしょう?」って思われがちやけど、寝たきりのときから不思議と「絶対にがんで死なない」という確信があったんです。
医療関係の方たちが「もう長くないだろうから、少しでもラクに逝かせてあげよう」みたいな空気のなか、自分だけは「私はがんで死なない」とか「また韓国に行くねん」とか言ってました。
そこからホルモン治療と新しいタイプの抗がん薬治療をはじめ、リハビリを重ねて今に至ります。
——「がんでは死なない」という確信は、どこから生まれたのでしょうか。
私は小さい頃から、一度やると決めたことはしつこくやり抜く負けず嫌いな性格なんです。根底には、その諦めの悪さがあった気がしますね。
やっぱり、このまま死ぬなんて絶対に悔しいし、ありえへんというか。私はクリスチャンなこともあって、ただ自分のために命を使うんじゃなくて、神様や誰かのために生きて希望を返していきたいと思いました。
——想像を絶する苦痛のなかで、心が折れそうになる瞬間もあったかと思います。そのときに心がけていたことはありますか?
あまりの痛みに「死にたい」と言ってしまいそうな瞬間もありました。でもこれって、自分にとって何より最悪で、言っちゃいけないワードじゃないですか。そういうマイナスな言葉は絶対に言わないようにしていました。
心が折れそうなときには、マイナスな言葉のかわりに、好きな言葉や自分が前向きになれる言葉を口にするんです。「がんがなくなって、ありがとうございます」みたいな。傍から見たらめっちゃ変な人やけど(笑)それを習慣にしていました。
寝たきりでも「死ぬ気はしない」と思っていたし、リハビリで車椅子に乗っているときも回復して歩いている自分をイメージしてたから、今の自分の状態も驚くことじゃないんですよね。
ただ医療関係の方からは「諦めてたら死んでいたかもしれない」「ミミポポさんを見て心の持ちようの大事さを痛感した」と言われていて、やっぱり気の持ちようが大事なんやなと実感しています。
——闘病において、心の支えになったことはありますか。
余命宣告を受けても前向きで、どんどん回復していく私の姿を見ていた訪問看護師さんが「(ミミポポさんに)会いに来るとすごい元気もらえるわ。乳がんのことを書いて発信してみたら?」と勧めてくれたんです。
それでアメブロやYouTubeをはじめてみたら、いろいろな人から「希望をもらえました」とコメントをもらって。生かされた命を使って希望や感謝を返せたらと思っていたのですごくうれしいし、むしろ自分が力をもらえています。
誰かのためになるってことは、すごい原動力になると思いました。
奇跡は日常に溢れている。「がんになる前の自分には戻りたくない」に込められた思い
——これまでの闘病生活を振り返って、がん治療について思うことがあればお聞かせください。
私の治療姿勢は極端だったと思いますが、そのおかげで学んだこともありました。
特に後悔したのは、検査に行かずに自分の身体とちゃんと向き合わなかったこと。東洋医学の先生にも「きちんと検査した方がいい」と言われていたのですが、当時は完全に医療不信に走っていて行かなかったんです。結果、骨転移にも気づかずに無理やり歩くなど無謀なことをしていました。
身体の状態を知ることが大事だし、治療はどれか一択じゃなく、いいとこ取りをするのが一番だなと考えています。
あと思うのが、誰かの言葉に左右されずに、自分で舵取りをして納得いく治療を選べたらいいなということです。
——「自分で舵取りをする」というのは、どういう意味でしょうか?
人って恐怖心から、どうしても誰かの言葉を頼りにしたくなるし、判断を託したくなるんですよね。まさしく私もそのひとりで、当初はお医者さんに全て任せようとしている自分がいました。
ただそうやって舵取りを誰かに任せているときは、お医者さんの言葉ひとつで喜んだり落ち込んだり、常に恐怖がつきまとっていて。
でも「あくまで船長は私!」と思って治療を考えるようになってからは、自然とその恐怖を乗り越えることができました。
がん治療は本当に人それぞれなので、誰かの言葉は参考程度に、自分が本当に納得できる治療を受けて欲しいと思います。
——ミミポポさんが、闘病生活を通して得た気づきがあれば教えてください。
がんになる前はいつもストイックに何かを頑張っていて、立ち止まって自分と向き合う暇もありませんでした。自分に厳しくて、何をやってもなかなか満足しなくて、一言で言えば生きにくかったんです。
でも、がんになって余命宣告を受けてからは、良くも悪くも止まらざるを得なくなった。結果、自分の心の内側がよく見えるようになりました。
それに、がんになるまで「奇跡は起こすもの」だと思っていたけど、今は「日常は小さな奇跡にあふれてる」と感じています。一度、日常生活を失ったことで、ただ自分で歩けることや座れること、話せること、家族がいることその全てが奇跡で、日常が奇跡の連続だったとはじめて気づきました。だから今は、何気ない日々に感謝でいっぱいです!
もし病気になってなければ、それに気づくことはありませんでした。がんになって良かったとは思わないけれど、がんになる前の自分には戻りたくないって思います。
乳がんの告知、そして余命宣告を受けてから今日まで、常に前向きな姿勢を貫いてきたミミポポさん。ブログやYouTubeで見せるパワフルな姿を支える底力には、諦めずに希望を持ち続ける精神力と、自分で舵取りをしていくのだという揺るぎない強さがありました。
「マイナスな言葉のかわりに前向きな言葉を口にする」「あくまで船長は私と考える」など、つらいときを乗り越えるヒントをもらえた今回の取材。困難に直面したときには、ミミポポさんの言葉を思い出してみてはいかがでしょうか。